第8話 こんな家族、捨てたい
「はい、はい……すみませんでした。今までお世話になりました」
千花は買ったばかりのスマートフォンを右腕にぶらんと下げた。まだガラケーと違って慣れない。
(またバイトを辞めてしまった。美織とせめてお金を貯めようって約束したのに)
徐々に起き上がることが難しくなって辞めてしまう。
全身が石のようだった。アルバイトを辞めるパターンはいつもそれだ。
それ以外も職場の何気ない言葉が辛くなってしまう。
母の日とか父の日とか聞きたくもないことをみんな楽しそうに話す。そして父の日に何を送るの? と言われるとどっと疲れる。
(……別世界みたいだ。親に感謝して楽しいなんて)
それでも向こう側、世間から見れば異端者は千花の方なのだ。
親に感謝をしないといつまでも子供だと笑われてしまう。だから架空のプレゼントをでっち上げるのだがその度に具合が悪くなっていく。
それでも千花の両親は少しマシになっていた。食事は用意してあったらラッキー。父はいつも酒を飲んでいて、千花と同じように母はいつも寝込んでいる。
それでも牧子が警察を呼んでから、臆病な父は手を挙げることを怖がるようになった。
二年前、千花が冗談で「警察呼ぼうかな」と言ったことも大きい。その代わり、眠っている千花を起こして怒鳴りつけることも増えていた。
「また寝てるの?」
千花の母がふすまの隙間から寝転んでいる千花を見ている。
寝ているのは昨日、父が真夜中に起こして怒鳴りつけたからじゃないか。
言っても無駄だとその言葉を飲み込む。
「もう少ししたら起きるよ」
「アルバイトはどうしたの、また辞めたの?」
「……契約期間が切れたんだよ」
「いいかげんちゃんと働いてよ」
千花は母に背を向けて布団を被った。母のことをかわいそうだと思ったこともある。
けれど離婚の話をすると「世間に顔向けができない」と言ったのでそれから徐々に母の存在自体を諦めた。
美織と同じように、千花もあまり眠れない。
美織は母の話を聞く以外は寝て転んでばかりだが、千花も同じようなものだ。そのくせ夜はなかなか眠れない。
寝てばかりの母の代わりに家事をするとぐらりと布団に倒れてしまう。しかし熟睡は訪れない。
スマートフォンで慣れない検索をする。千花は自分はうつ病ではないかとかなり疑っていた。
アプリのマップというものを知り、近所の施設を検索できることを知った。
インターネットでうつ病というものを知った。食べられない、眠れない、となったら危ないらしい。
病院に早く行かないと取り返しがつかないことも知った。親の虐待とも深く結びついていることも本で勉強している。
(どうしよう、放っておくと治らなくなるかもしれないって書いてある。精神科の病院なんてこのあたりにあるのかな)
酒ばかり飲むくせに世間体を気にする父と言いなりの母。
絶対に精神科に行くなんて言えない。
それにここは地方都市で病院自体の数も少ない。それに行ったところを誰かに見られて噂されるかもしれない。
(どうしよう……牧子、美織、会いたいな)
頭痛がして千花は終わりなきスクロールをやめて、浅い眠りについた。
それからも千花は時々スマートフォンで病院を探した。
マップで『Z市 精神科』と行く予定のない病院の検索をした。すると病院のホームページというものを知った。
『やませクリニック つらい気持ちを話してみませんか?』
それは千花の暮らすZ市の病院ではなく隣のY市の病院だった。
マップでの精神科のレビューは基本的に低く、調べると見るに耐えない罵詈雑言が飛び交っていた。
SNSなどを見ると精神科は相性などもあり、治療がうまく行かなくて捨て台詞のように低評価レビューを残すこともよくあることらしい。
(治療、うまくいかないこともあるんだ)
不意に落ち込んでしまう。それでも「やませクリニック」のホームページを見る。
中年の女性の先生で優しそうに見えた。マップのレビューは悪かった。でもそれは他の精神科も一緒だ。
千花は天井を見上げながらぼんやりと考えた。
治療はうまくいくとは限らない。それでもこのままアルバイトを転々としていも治るわけではない。
「ちょっと。お父さんのお酒、買ってきて」
母がふすまを開けて、捨て台詞のように「いつも寝てるんだから」と去っていった。
千花は母が一度でも父が原因だと言わないことは馴染んではいたが時々不思議に思う。
五千円を渡されて、迷ったが怒鳴られる原因になるので酒を買いに行く。どうせ買わなかったら父は自分で買いに行くのだ。
そういえば健康診断の数値が酷いと言っていたが大丈夫なのだろうか。知るか、父の選んだ人生だ。
ぼんやりと酒屋までの道を歩く。天気はよく少し気が晴れた。ただ買いに行くものを考えると憂鬱だ。
お金のことを思い出す。千花は食費と言われてただでさえ少ないアルバイトのお金をかなり取り上げられていた。だから少ない金額しか残らない。
だから親の知らない銀行の口座を作り、そこにアルバイトの給料を貯めていた。親には偽の給与の額を伝え、少ない食費を払った。
それで少しずつ貯金の金額は上がっていった。
(どうせ飲み代に消えるのに、食費なんて払いたくない)
千花の両親は借金がある。理由は父の酒だ。
千花は酒屋に行くとまたかという顔を女将さんにされる。
アルコール依存症の家族だと思われているのだ。得意先ではあるけれどいい顔はされなかった。
「パックで二つ。ホワイトホースもお願いします」
「お釣りです」
最近はありがとうございますも言われなくなった。
帰り道ではまだ空は橙色ではなく、水色のままだった。スマートフォンを見ると十六時半と表示されていた。
重くなった両手を考えて早足で帰る。これだけクタクタだ。
アルバイトなど無理に決まっているとどこか冷めた自分が見ている。
(それでも頑張るしかない。頑張るしかないんだ……)
誰も助けてはくれない。
牧子と美織のことを思い出す。牧子は逃げることができた。正直、妬ましくもある。
美織は逃げようとしない。「ママはかわいそう」と逃げる意思自体を日々失っていると感じる。
(私はまだ東京に行きたい。牧子のところに行きたい)
やませクリニック、という単語が何度も脳裏をよぎる。
Y市は遠くて電車代もかかるが貯金がある。寝てばかりでうだうだと貯金を溶かすよりもマシな使い道ではないだろうか。
母に酒を渡すとどっと疲れが出た。
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