第7話 逃げたい、諦めきれない
「ねえ、お金を貯めない?」
また千花と会っていると美織はきょとんとした。
チェーンのカフェで一ヶ月に一度だけ二時間ほど話をする。それが自然とルーティンになっていた。
「お金? どうして?」
本当に意外だったのでホットのカフェラテを飲みながら美織は千花の袖口を見た。アザはない。
牧子が警察を呼んで以来、殴られることは減ったと言っていた。牧子はここにはいないけど千花を守っている。
「私たちは牧子と違う。このままじゃ東京へ行けない。一生ずっと毒親たちのそばに居続けることになる。そんなの死んでるのと同じじゃない」
死んでるのと同じ。その言葉は美織のみぞおちにストンと刺さった。
母の愚痴を聞いて暮らすことは死んでいることと同じなのだろうか。
美織は母が好きなのか自問した。分からない。
けれど母はかわいそうだと思った。
美織が生まれたことで人生が台無しになったのだ。これで美織が見捨てたら母はどうなる。
「でも……私たちアルバイトさえ続かないじゃない。そんなの無理だよ」
「無理じゃないよ。次こそ続ければ私たちだって」
「無理だって。私も千花も本当はずっと寝ていたいじゃない。親と接しているだけできつくて、寝てしまう。さらにお金を貯めるなんて無理」
それは千花と美織の現実だった。
形は違えど家にいると吸血鬼に血を吸われるようにぐったりと何もできなくなる。
それでも帰る家は親のいる家だけしかない。
アルバイトなど二ヶ月続けばいい方だ。それも大半は食費だと親に取り上げられてしまう。
千花は俯いて黙ってしまった。美織はハッとして取り繕う。
「その、私もなんとかしないといけないとは思ってる。東京に行くのはもちろん無理だし、せめてアルバイトくらいしないと世間体が悪い。でも、どうしても苦しくて……」
「私たちってうつ病じゃないかな?」
また驚いて言葉を失ってしまった。
千花は一冊の本をカバンから取り出した。タイトルにうつ病という単語が入っていた。
読書好きの千花はあの過酷な家で図書館に通うことを忘れなかった。
「この本に書いてあったんだ。うつ病は重度になると動けなくなる。疲れてるのに眠れない。きつくてたまらないんだってさ。職場でパワハラにあったり……家族から酷い目にあう人がなりやすいんだって。これって私と美織のことじゃない?」
美織は心臓に手を当てて高まった心拍数を抑えようとした。
自分の状態が病気だった? 今までただ怠け者なだけだと思っていた。
いつだって父はそう言っていたのでなぜ自分がそうなのかなんて考えたこともなかった。
「う、うつ病なんてすごく真面目な人だけがなる病気でしょう?」
「もしも私たちがうつ病なら精神科に行けば治るかもしれない。薬を飲めば治るかも。そうしたらお金だって貯められるんじゃない?」
想像以上に千花は論理的に考えていた。
この説明できない苦しさに病名がつくなんて想像の範囲外だ。
自分が全部悪いと決めつけていた美織には刺激が強すぎる。
「そりゃ、もしもうつ病だったら治るかもしれないけど、そんなはずないよ。千花は……そうかもしれないけど、私は親に殴られたこともご飯をもらえなかったこともないし」
「そうかな。私は美織がお母さんに束縛されているように見える。全部が悪い人には見えないけど、だからこそ辛いんじゃないかな。
それに美織を産んだから人生が台無しになったって言ってるんでしょ。そんな美織にもどうにもできないことで責めるなんておかしいと思うよ」
美織は千花の声の大きさの方が気になった。サッとカフェの従業員の方を見てしまう。
悪いのは美織だ。つい千花に母の愚痴を言ってしまった。
それでも友達にそんなことをバラす娘だと誰かに知られることが怖かった。
「ねえ、精神科に行ってみない?」
「……ごめん、突然すぎてとても考えられないよ。自分が病気かもしれないなんて考えたこともないし」
「私は美織はそう見えるよ」
頭をレンガで殴られたような衝撃だった。他人から見たらうつ病に見えるのか?
でも確かに同年代の娘はこんなに毎日布団で過ごさず、仕事や家庭で元気に過ごしている。
それが世間からの眼差しなら山下のおばさんは本当はなんと思っているのだろう。
「話を戻そう。うん、お金は貯めないと行けないよね。私も次のアルバイトは続けようと思う。ママに食費を入れなさいって言われてるし」
「……うん」
千花はしばらく無口になった。それに美織はうつ病という言葉を店員に聞かれる心配がなくなり安堵した。
五分ほど経つと千花は今度は年賀状をカバンから取り出した。牧子のものだ。
「牧子、眩しいね」
「うん……すっかり遠い世界だね」
今度の年賀状は牧子の写真はなく、ただ干支と謹賀新年の文字だけが印刷されていた。
手書きのメッセージでこう書いてあった。
『東京に来たかったら任せて。一年くらいならうちに住んでいいから』
千花の年賀状にも美織の年賀状にもそう書いてあった。牧子は変わってない。
「時々、思うんだ。本当に牧子の元へ行こうかって」
「本当?」
美織の中では東京は夢の国のようだった。
鮮やかなグラデーションの中に星が舞っているような美しくて現実感がない世界。友人のはずの牧子はおとぎの国の住人のように思えた。
「だって、父が暴れない家に一年住めばもしかしたら私だって……」
孝行娘は考える。
東京へ行ったら母はなんていうだろう。いつも褒めてくれる山下のおばさんは親不孝者と言うのだろうか。
「……なんてね。美織のいう通り。本当は東京まで行く新幹線代だってないんだ。確かにお金を貯めないと意味がないね」
幸い千花はすぐその話をやめたので美織は安心した。
千花は大切な友達だ。本音を話せるのはもう千花だけだった。
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