第6話 逃げたい、逃げられない
千花と美織は新しくできたチェーン店のカフェで待ち合わせた。
毒親同盟は続いていた。手を振る千花は少し歳をとっていたが美織も同じだ。高校の頃の友達はいまはお互いに千花と美織だけだ。
「牧子、元気そうだね」
「本当、すっかり東京の人になってる」
二人は年賀状に印刷された牧子の写真を見下ろして笑い合った。
あの警察沙汰から七年の時が経過していた。
その間に牧子は東京の名門大学を卒業して、親の知らない就職先を見つけた。二度とこの街には帰らなかった。
もう三人は二十五歳になって、親も知らない牧子の住所を千花と美織だけ知っている。
互いの親に住所がバレないためにいつも年賀状は局留めで届く。
写真の牧子は洗練されていた。近況に書いてある「仕事で疲れちゃったよ」という言葉とそぐわない。
千花と美織は遠くを見るように年賀状を見つめた。
「メールはしてるけど……牧子はすっかり遠い人になっちゃったね」
「うん……牧子、頭が良かったもんね」
千花は右手で頬杖をついて窓の外の曇り空を眺めた。美織はきっと東京を見つめているんだろうと自分も窓の方に顔を向けた。
東京。なんて遠いんだろう。毒親同盟には遠すぎる。
「牧子はさ……逃げ出せたんだよね。毒親から」
「……うん」
美織はまだ毒親という言葉に抵抗があった。
いつもその時には母ではなく山下のおばさんの面影が頭をよぎる。
暖色系の照明の下で千花は暖かいカフェオレを飲んだ。
「牧子、まだ言ってくれてるよね。東京に出て、牧子の家にいていいって……でもさ、無理だよね」
「……うん、牧子はできたけど、無理だよ」
「牧子だけでも逃げられて良かった」
そう言った千花は少し誇らしげだった。美織はそうはなれない。
(でも、親を捨てるなんて親不孝、いつか天罰が下ると思うけど)
写真の中の元気そうな牧子を美織はもう一度不思議な想いで見つめた。
ただいまと帰ると待っていたのはやはり母だった。
「美織ちゃん、こっち」
いつものように母が自室に招く。美織は暗い表情のまま頷いた。
「……うん、ママ」
部屋に入ると甘ったるい匂いが充満していた。
今日はケーキが四つテーブルに乗っている。母は近所にできたケーキ屋が気に入ってよく買ってきていた。
母に一つ、美織に三つ。母は残すと酷く怒った。
私は親に買ってもらったことなんてないのに、と泣くのだ。
「今日は随分遅かったわね。心配したわ。一体何してたの? ママはおばあちゃんにまたぶつぶつ言われたのに」
「ごめん」
ショートケーキにフォークを刺す。食べながら晩御飯のことを思う。
お菓子も晩ご飯も残すと母は酷く怒った。その度に増えていく体重のことを思う。
「千花と会ってた。とても辛そうだったから、話が長くなって」
「そう……まあ北川さんのお父さんはおかしいものね。この前もお酒を飲んで路上で寝ていたと噂になっていたわ。千花ちゃんもかわいそうに」
かわいそうと言った口はどこか他人事だった。北川は千花の苗字だ。
「美織ちゃん、本当に南さんのお嬢さんから連絡はないの?」
どきりと年賀状がよぎる。南は牧子の苗字だ。
ある日、連絡を絶った牧子を家族はずっと探していた。
時々、万一バレたら大変と思い、年賀状を送るのはやめたらと千花と美織は言うけれど牧子は「毒親同盟は見捨てない」とやめはしなかった。
「知らないよ。牧子は東京に行って私のことなんて忘れたんだと思う」
美織にも毒親同盟は大切なものだった。だから決して牧子の居場所をバラしたりしない。
「そう……まあ、親を見捨てるような娘なんて薄情に決まっているわよね。本当にとんでもないわ。早く見つかるといいのに」
じっと母は責めるような目を美織に向ける。
美織はここにいるのに「親を捨てた娘」という存在自体が許せないらしい。
美織は東京に行ったら母はどんなに罵られるだろうと背筋が冷たくなった。
(私はなんで毒親同盟に入っているんだろう。牧子は高い成績を求められて辛かった。千花は言うまでもない。私は帰ったらお母さんがケーキを用意して待ってくれる。お母さんは毒親なんだろうか?)
「ちょっと、ちゃんと食べなさい。ぼーっとしないで、高かかったんだから。美味しいでしょ。私はこんなもの親に買ってもらったことないのよ」
「ご、ごめん」
はっと食べるペースが遅れていることに気づき、ケーキを大きく切り分けた。
正直、カフェでクッキーを食べたからもう食べたくない。それでも食べない選択肢は美織にはなかった。
美織がケーキを二つ食べている姿を母はぼんやりと見ていた。
「美織ちゃんがいなければ私は会社を辞めなくて済んだのに」
はっと顔をあげる。母の苦い顔。またこの話をするなんて本当に機嫌が悪かったのだ。
身構えると言葉が機関銃のように降り注いだ。
「私は成績がよかった。だから大手に勤められたのにお腹にあなたができて……仕事が楽しかった。生き甲斐だったのに。それなのにお父さんと付き合ってたから、こんなことになってしまった。自分で食い扶持を稼げないって本当に惨め。家族の言うこと聞くしかない。家でおばあちゃんの機嫌を取るだけの人生に閉じ込められた」
「……ごめんね、ママ」
母は目端に涙が滲んでいる。母はこの話になると本当に長い。それほど母にとって仕事を諦めた日は人生を捨てた日だったのだ。
お腹に美織さえできなければ母の人生は幸福だったのだ。
(私さえいなければ)
その想いは何度も何度も美織を深い場所へと沈めていった。
「いやね。それでも子供を産むことは女の幸せに決まっているじゃない。美織ちゃんがいてママ幸せよ。ずっとそばにいてね」
美織ができたことで仕事を奪われて不幸だった。そのくせ、子供を産んだことを幸せだったという。
二律背反のもとで美織は自分が母を不幸にしたのか幸福にしたのか分からなくなっていく。
「隣の山下のおばさんも言うのよ。西野さんはいつも美織ちゃんがそばにいて幸せねって。本当にいい娘だって言っているのよ」
「うん……ずっと一緒だよ、ママ」
三つ目のケーキを切り分けて、口元に運ぶ。
胃腸は限界だったが孝行娘はそれが仕事だ。特に今日は帰りが遅くなって母を不安にさせてしまったのだから。
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