第5話 親から逃げられた者
夕闇の中、歩いていると家の隣から手を振っている影があった。
「こんばんは」
美織は家に帰る前に隣の山下のおばさんに挨拶した。
山下のおばさんは美織を何かと気にかけて話しかけてくれる。山下のおばさんは小柄でいつも人の良さそうな暖かい笑みを浮かべている。
「美織ちゃん、今日も学校お疲れ様。お母さん、心配してたよ」
「あはは……ママは大袈裟なんです。学校に行っただけなのに」
「母親ってそういうものよ。美織ちゃんはいつも親孝行でいい子だね」
玄関で別れて家に入る。山下のおばさんはいつも美織を親孝行だと言う。滅多に褒められることのない美織はその言葉を聞くと背筋がいつもより伸びた。
「ただいま……ママ?」
「美織ちゃん、帰ってきたのね」
母は自分の部屋から首を出し、手招きをしていた。
美織はいつものように母の部屋にカバンも置かずに真っ直ぐ行く。母の部屋には低いテーブルにお菓子とコーヒーが置いてあった。美織の分もある。
「今日もね、おばあちゃんったら酷いのよ。私の食器の洗い方が汚い、ちゃんと洗えって。私は二回ちゃんと洗っているのになんでもケチをつける。それに山下さんの奥さんに挨拶したら、言い方が暗いって言うのよ。私はいつも明るくご近所付きあいしているのに、おばあちゃんはいつもいつも。パパも何も言ってくれない。見てるだけ」
美織はお菓子の袋を二つ開けた。母は残すともったいないと怒るのだ。
「うん、ママ。パパは酷いね」
「美織ちゃんに電話してる時だけが救い。ママはいつだって美織ちゃんが心配なの。全部あなたのためなのよ」
「ママ、心配してくれてありがとう」
「それにしても美織ちゃん、今日のメールの返信はなんか雑じゃなかった? ママがどんなに辛いか分かってるでしょ? どうせ遊んでいたんでしょ」
「違うよ。でもごめんね、ママ」
そうして二時間が過ぎた。美織は必死に母が用意してくれたお菓子を口に詰め込んだ。その頃になると父が食事の準備をしろと怒鳴った。
毒親同盟は細々と続いた。
「きっと私たち三人でこの街を出ようね」
牧子は真剣にそう言っていたが千花と美織は現実感がなかった。
それでも牧子が次々に毒親やカウンセリングの本を紹介してくれることが千花は楽しみだった。美織はよく分からず、本を手に取るが開きはしなかった。
同盟といっても無力な高校生の三人にできることはほとんどない。それでも放課後の学校や図書館に残って牧子と千花は親がおかしいと言い合った。
美織はどうしても母親を責めることができずに「どうしたらママは昼休みに電話するのをやめてくれるんだろう。本当はクラスで目立って恥ずかしい」と泣くと二人は慰めてくれた。
そうしている内に高校三年生になり、牧子は受験勉強で毒親同盟に来られなくなった。千花と美織の家はそこまで裕福ではないし、成績も良くなかったので大学進学は考えていない。
千花と美織は二人で毒親同盟を続けた。かといって牧子ほどの激しさは二人にはなく、泣く美織と千花が慰めるという形で終わることが多かった。
「千花も辛いのに、いつも慰めてもらってごめんね」
「いいよ、同じ同盟じゃない」
美織は千花の言葉に何度も救われた。美織は千花の腕を見下ろした。アザがある。けれど美織はなんと言っていいか分からなかった。視線に気づいた千花はサッとアザを隠した。
「また父親が酔った時に暴れてさ」
「……酷いよね」
「もう慣れたよ」
無力という言葉を美織は思い出した。なんて無力なのだろう。千花は苦しんでいるのに何もできない。
「ごめん、千花、何もできなくてごめん……」
「いいんだよ、美織だって大変でしょ」
参加できなくなった牧子は年賀状を出して二人を励ました。
春になる直前サイレンが響き渡る。警察だった。千花の家の前にパトカーが止まっている。
「この小娘、余計なことを!」
「あんたが千花を殴ったんだ!」
千花の父親が牧子の頬を叩いた。
受験が終わった牧子がやっと千花の家にやってきた時、千花は庭先で髪を掴まれて右頬を拳で殴られていた。獣のような目をした千花の唇からは血が流れていた。
その光景に凍りついた牧子は数回呼吸をすると、止めずに合格祝いに買ってもらったスマートフォンで警察を呼んだ。
「あいつが千花を殴ったんです、父親のくせに!」
「落ち着いて。まずは事情を聞かないと」
牧子は千花の父親を逮捕してくれと懇願した。
警察は家庭の事情ということで暴行罪を適用しなかった。代わりに派出所に一晩だけ千花を泊めてくれた。
翌日の朝に派出所を訪れた牧子と美織に憔悴した千花は微笑んだ。牧子はボロボロと涙と流した。美織は千花の手を握った。
「ごめん、ごめん……何もできなかった」
「そんなことないよ。父さんたら警察の人に怒られて小さくなっていた。あんな父さん初めて見た。牧子のおかげ」
「だって……あいつは逮捕されなかった。千花は結局、あの家に帰るしかないんだ」
「……うん。口では父さんは反省しましたって言ってたしね」
はっと牧子は顔を上げた。
「ねえ、このまま三人で東京に行かない?」
「……え?」
美織は凍りついた。母は、山下のおばさんはなんて思うだろう。
「私、東京の大学受かったよ。お母さんの第一志望だったから、少し広い家を借りられる。そこに三人でこっそり住もう」
「……無茶だよ」
頬を腫らした千花は首を横に振った。その千花に安堵してしまった美織は自分を軽蔑した。
「でも、このままじゃ!」
「牧子、ありがとう。東京に行こうと言ってくれて……もしいつか私も東京に行けたら牧子に必ず会いに行くよ」
牧子は諦めなかった。児童相談所に何度も電話した。
けれど高校を卒業寸前の千花には児童福祉の制度は適応されなかった。
三月の始まりに三人は新幹線の乗り場で並んでいた。途中で桃の花が咲いていた。
「牧子、バイバイ」
「東京でも元気でね」
牧子とはここでお別れだ。千花と美織は東京の名門大学へ行く牧子を見送っていた。
「ありがとう、二人とも。私、二人をずっと待っているよ」
牧子はいつものようにポニーテールで合格祝いのバーバーリーのコートを着ていた。
千花はケーキ屋で買ったクッキーを美織との共同で贈った。
美織は県庁まで出てくるなんて本当に久しぶりでキョロキョロしてしまった。
「千花……家では大丈夫?」
牧子は千花の袖口をじっと見た。
「うん。警察は本当に怖かったみたいでさ、あれから暴れないんだ。ずっと酒は飲んでるけどね。あれで父も母も世間体が何より大事なんだ。路上で酔っ払って倒れてるくせにね。しばらくは大人しくしてると思う……こんなことなら私が早く警察を呼べばよかった」
「ううん、千花がそれをしたら危ないよ……他人の私がやるべきだった」
「警察なんて……怖いよね」
美織は千花の家に警察が来た日を思い出す。千花が殴られていることもパトカーが来たことも本当に怖かった。あんな風に動けて牧子と自分は全然違うと痛感した。
もうすぐ新幹線の出発時間だ。牧子はその前にカバンから二冊の本を出した。それは「毒になる親」だった。すっと千花と美織の手に握らせる。
「プレゼント。私はきっと帰ってこないけど、二人を東京で待ってる。親に負けないで自分の人生を生きてね」
牧子はそのまま新幹線に乗った。
窓の向こうで牧子は必死に手を振ったが新幹線の速度にすぐ見えなくなってしまう。
千花と美織はホームでいつまでも手を振っていた。
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