第21話 孝行娘の破滅
祖母を焼き場に連れて、精進落としの寿司を食べる。
誰も美織に話しかけなかった。家に帰る車の中で美織は必死にどうしてなのか考えた。
喪服はレンタルなので黒いズボンと灰色のトレーナーに着替えていた。全身が石のように重かった。
(なんで? 私が恥って何? 昔みたいにみんな口も聞いてくれなかった……やっとおばあちゃんが死んでママが自由になれたのに)
家について、自室でやっと息を着く。
そうだ、母となら祖母の死を一緒に喜べると思いつく。ずっと美織を縛り付けて愚痴を言わずにいられないくらい苦しんできたのだ。
美織の苦しみだって今日で終わり。葬儀では人目があったが母とだけは喜びを分かち合えるはず。
「美織」
「……パパ?」
母の部屋に行こうと立ち上がった美織に声をかけたのは珍しく父だった。父もノックなしで美織の部屋に入ってくる。
「美織ちゃん」
母もその後に続いた。
美織は母と喜びを分かち合いたくてぱあと笑顔を浮かべた。しかし父が母との間に立ちはだかった。
「美織、いつまでこんな親不孝な生活を続ける気だ?」
美織は雷に打たれたように震えた。
親不孝? それは自分とはもっとも遠い言葉のはず。
「ぱ、パパ、何言ってるの? 私はずっと家にいて親孝行でしょ」
「ずっと結婚もせず、働きもせず、バクバク食べてみっともなく太って……いい加減にしろ。おばあちゃんの葬式もろくに手伝わず……葬式でお前がなんと言われてたか知ってるか? 俺たちがどんなに恥ずかしい思いをしたか」
「……パパ?」
「西野の恥だよ、お前は」
父が何を言っているか理解できない。
山下のおばさんは一週間前に親孝行だと言ってくれた。
美織はすがる様に母に顔を向けた。
「ママ……?」
「……」
母は感情の読めない目を宙に彷徨わせた。
「パパが言ってるだけだよね。私が親不孝なんてあるはずない……ほ、ほら、いつもオムツを買いに言ってたじゃない」
「確かにパパの言う通りかもね」
母は美織を見てくれなかった。母はあんなに口汚く罵った父に媚びるような目を向けていた。
「愛子、お前が甘やかすから」
「……私は美織ちゃんを甘やかしすぎたかもしれない。いつも思ってた。一体いつまで引きこもりの生活をしているんだろうって。確かに女の子だから家事手伝いって思っていたけど、美織ちゃんはろくに家事もせず、いつも甘えてママのお菓子を食べてばかり。私もついつい取り寄せちゃったけど、いつも残しもせず食べ尽くしていい加減にしろって思ってた」
いつも残すことなど許されなかった。そんなこと母は忘れているようだった。
家事だって手伝いたかったが母の愚痴を何時間も聞くときつくて動けなかった。
うつ病かもしれないと病院に行く事だって許されなかった。
「……ママ?」
「おばあちゃんだって美織ちゃんのせいでどんなに悲しんでたか。あんたのせいで寿命が短くなった可能性だってあるのよ」
一番信じられないのはあんなに悪く言っていた父に媚びる様な眼差しを向けていることだ。
何時間も父の悪口を言っていたではないか。
「ママ、どうして? おばあちゃんなんて早く死んじゃえばいいってあんなに言ってたのに」
父の目が母に厳しく向く。
母は数歩進んでパン! と美織の頬を平手で叩いた。世界が真っ暗になった。
「なんて事言うの。ママがそんな事言うわけないでしょ」
「だ、だって……」
「引きこもりの生活のせいで心根が腐っちゃったのね。美織ちゃんがそんなにおばあちゃんを嫌いとは知らなかったわ。でも葬式の日にそんなことを言うなんて薄情にも程があるわ……みんな言い過ぎだと思っていたけど美織ちゃんは本当に親不孝者ね」
『ママのことは私が一番分かってるの!』。
そう千花に言った時間が遠い。
世界は壊れてしまった。美織が信じていた世界は粉々に砕けてしまった。
祖母が死んで明るくなると思っていた世界はどんどん両手からこぼれ落ちてしまう。
「……わ、私は、親不孝なんかじゃない」
それは牧子のはず。それは千花のはず。
「だ、だって、ママの言うこと、なんでも聞いてきたじゃない」
「何を言ってるの? そんなこと頼んでない。こんなことになると思ってお見合いさせたのに、美織ちゃんは引きこもってばかり。三十六歳にもなって働いてもいない、結婚もしない娘、親不孝に決まってるじゃない」
母の目はずっと美織を見ず、父だけを見ていた。美織の目から一筋の涙がこぼれた。
美織は祖母の葬儀の後、深夜まで説教された。
どんなに美織が恥ずかしいか、どんなに親不孝か罵られた。
ずっと悪いと思ってきた父に言われるのは耐えられる。けれど母が否定しないことは耐えられなかった。
泣いて母に今まで言っていたことと違うと訴えたが、全て美織の妄想ということにされた。
「とにかく、今後はこんな引きこもりの生活はさせないからな」
父はそう言って母を伴って去った。
美織は何度も母に話が違うと言ったが全て引きこもりの言い訳だと片付けられた。
「……私は、なんだったの」
深夜、美織は虚な目で天井を見上げていた。
母の前で流し続けた涙は跡だけ残して乾いていた。
長い間、ぴくりともしなかった指先がようやく動くとスマートフォンを取った。
『死にたい』『死にたい』『死にたい』
何十回も同じ言葉を鍵アカウントにポストした。誰も見ていない言葉にはなんの反響もない。
繰り返しているとアプリから『ひとりで悩まないで』といのちの電話を勧められる。
何も分かっていないとスマートフォンをベッドに投げた。
(どうして私がこんな目にあうの? 私が親不孝なわけない)
美織は世界を知らなかった。高校卒業の頃の孝行娘のままのつもりだった。
三十六歳になるまで母に尽くしてきてまさか親不孝と言われるなんて夢にも見なかった。
「……ママ、ママ、ママ」
何より辛いのは母から親不孝だと言われたことだった。
どうすればよかったのだ。
母の望みを全て叶えてきて否定されたら、娘はどうすればいいのだ。
「そうだ……千花、牧子」
ボソリと呟くと美織は眠りに落ちた。
早朝に玄関のベルに叩き起こされるように南葉子はベッドから起き上がった。
時計を見ると六時だった。どんな非常識な人がこんな時間にベルを鳴らすのか、それとも火事でも起きたのか。
「はいはい、なんですか……は?」
「おはようございます」
玄関ドアを開けるとそこには西野美織がいた。
見る影もないほど太っていて目が濁っているが娘の牧子の高校の頃の友達だ。
牧子は家に美織を連れてきたことはなかったが、街のカフェで北川千花と三人で話していたはずだ。
ああ、北川千花もいなくなったのだっけ。
「な、なんですか、こんな時間に。非常識ですよ」
「すみません、どうしても南のおばさんに教えないといけないことがあって……」
美織は妙に晴々とした顔をして、カバンの中から何かを取り出した。
それは紙でポストカードのように見えた。
「牧子の住所です」
「……え?」
「ずっとこっそりやり取りをしてきました。でも、やっぱりおばさんはまだ牧子を探してるんじゃないかって……受け取ってください。牧子だっておばさんを置いて行くなんて、ずっと親不孝で良くないと思います」
美織は誇らしげに年賀状を差し出した。それは今年の正月の印を押した南牧子の年賀状だった。
ご丁寧にボールペンで牧子の携帯の電話番号を追記している。




