第18話 世間の目
千花はアルバイトを終えたあと店長に話をした。
この小さな弁当屋のアルバイトはもう八年以上続いている。
最初はどうなることかと思ったがスタッフ、特に店長は優しくしてくれて続けることができた。
「北川さん、ここ、辞めるの?」
「はい、来月には辞めようと思って。今までお世話になりました」
頭を下げてインターネットのテンプレートを手書きした辞表を沢田店長に差し出す。
このアルバイトは山瀬医師の勧めで探した。週二回からでもスタートを許してくれた場所だ。
数年うつ病の治療に専念した千花は焦り、週六で入れるアルバイトを探そうとすると山瀬医師は週二回からスタートすることを勧めてくれた。
その言葉に千花は時間がかかりすぎると焦ったが今ではあの言葉の意味が分かる。
千花は重いうつ病でとても週六働ける状態ではなかった。
やってみると週二でも辛かった。
山瀬医師の指示のもと服薬して、少しずつうつ病を治しながら働くには週二からでないと続かない。
千花は一年目は服薬と睡眠に徹して、アルバイトは週二をキープすることを意識した。
地味だが回復は進んだ。
その頃から父親は深酒で夜は千花に関わらず寝てしまうことが増えたのも幸いした。母親の愚痴もあったが無視しているとあまり話さなくなった。
「どうして辞めるの?」
「……正規の仕事を探そうと思って。ここはいいところだけど、正規の社員は募集してないから」
店長は辞表をじっと見下ろすと中身を取り出した。
便箋を読んでいる店長を千花はじっと見つめた。店長は千花がアルバイトを始めたばかりの頃から何かと気にかけてくれて本当に感謝している。
千花はアルバイトを始めた一年半後、アルバイトを週三にすることができた。他人から見たら大したことではないだろうが千花は自分に自信が持てた。
薬の副作用を山瀬医師に相談して少しずつ薬の調整をした。夜はとにかく早く眠って、朝は可能なら朝日を浴びるために散歩した。
すると身体のだるさが減っていった。おそらく未治療のうつ病であろう母はまともに食事を作らない。自分で栄養の取れる食事を作っているとさらに回復は進んだ。
全て山瀬医師の助言だ。そして山瀬医師にはいつも本音を話せることが千花を支えた。
そして千花は八年アルバイトを続けることができた。今では週四で働いている。
お金は十分貯まった。あとは――。
「あの家から逃げるのかい?」
「え……」
辞表から顔を上げた店長に見つめられて千花は凍りついた。どうしてバレた。店長はこのことをまさか両親に話すのでは。
沢田店長は手を横に振って安心しろと言いたげに笑った。
「違う。そんな顔しなくていい。誰にも言ったりしないから」
「な、なんで……?」
「誰でも思うさ。北川の親父のアル中はこの辺では有名だからね。この前も他人の家の玄関で酒飲んで倒れてた。それに……」
店長は千花の額にそっと触れた。
「一度、顔にあざがついて店頭に立てなかったでしょう? あの時、思ったんだよ。あの父親には親の資格がないって」
それはアルバイト三年目のことだった。千花は久々に酒の入ったグラスを父親に投げつかられた。
『うるさい、馬鹿にしやがって! どいつもこいつも死んじまえ!』
そう父は叫んだ。
千花は父親に何も言ったわけではなかった。いつだって言いがかり。それでも千花の額にあざが残った。
深い傷ではなかったが店頭に出るには不穏なものだった。
千花はアルバイトを首になる覚悟で店に行ったが店長は「痛い?」と労るとしばらく千花を裏方の仕事に回してくれた。
「逃げるといいさ。北川さんは十分耐えた。それでも父親は変わらなかった。あんな家にずっといたらおかしくなってしまう」
「店長……ありがとうございます」
千花の安堵した表情に沢田店長は口を開いた。
「ずっと思っていたんだ。私は昔、夫に殴られてた。酷いアル中で故郷に逃げてくるまで付きまとった。アル中の男は最低だよ。でも、生まれた時から親がアル中の方が辛いんじゃなかって北川さんを見て、ずっと早く逃げてほしいと思っていたんだよ」
千花はびっくりした。自分以外にもアルコール依存症の家族に苦しめられた人がいたのだ。
同時に沢田店長の今までの気遣いが腑に落ちた。
「あんたは辛い中、ずっと働き者だった。いつも丁寧で根気よく働いた。だからどこへ行っても大丈夫さ」
「本当にありがとうございます」
深々と千花は頭を下げた。
本当に感謝した時は自然と頭が下がるのだと実感した。
「必ず逃げてみせます。友達と約束したんです。必ずあの家から逃げるって」
「そうかい……それは西野さんの娘とかい?」
店長の顔が曇った。
千花はその曇りに気付かずに安堵の笑みを浮かべた。
「はい、美織ともう一人です。もう一人の友達のところへ行くつもりです」
「……そう。ずっと不思議だったんだ。そうして北川さんみたいな人が西野さんの娘と友達なのか」
「? 美織は小学校からの友達なんです」
「そうか……そんなに長い付き合いなのかい」
「それに美織もお母さんのことでずっと苦しんでいるんです」
「……そうなのかい?」
沢田店長はまるで豚を猫と言われたような顔をした。
夜道を去っていく千花を見送りながら沢田店長は考えていた。
残り少ないシフトを終えたらもう千花に会えないだろう。寂しいけれど千花がアルコール依存症の男から解放されるということだ。やっと自分と同じように解放されるのだ。
「……西野美織、ね」
夜空を見上げると星が美しい。星を見つめて沢田店長は考えた。
西野美織はこの辺では有名な親不孝ものだった。
最初に勤めたスーパーを携帯をいじっているのがバレて辞めてから働いていない。
三十を過ぎて働きもせず、ろくに家事もせず家にこもっている。母親が甘やかして肥満の引きこもりになった。
それが西野美織の世間の評価だった。
沢田店長もそう思っていた。だから千花がなぜ西野美織と友人なのか不思議に思っていた。
懸命に生きている、本当に不幸な環境の千花がなぜただ親に甘えている西野美織が定期的にカフェで話しているのか疑問だった。
『美織もお母さんのことでずっと苦しんでいるんです』
本当は違うのか。西野美織には何かあるのか? ただ母が甘やかして引きこもりになっているのではないのか。
沢田店長はドラッグストアで見かけた西野美織を思い出した。
どんなに食べたんだというくらい太っていて目が濁っている。服だって濁った灰色スウェットで手入れされていない。
近寄りたくない。それが西野美織の印象だった。
もしかして本人の自業自得ではないのか? 千花は母親の影響と言っていた。
「いや……考え過ぎか」
千花は優しいから昔からの友達を見捨てられないだけに違いない、と沢田店長はドアを開けて店内に戻っていった。
だって殴られているわけでも食事を与えられないわけでもない。ならば千花と違って親から虐待を受けているわけはない。
あの娘はただの親不孝ものだ、と切り捨てた。
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