第60話 帰ってきた弟
ライトスは、ウェルへ働く力を守護魔法で押さえ続けていた。魔法を強めるたび、トッキーの剣先へ返る感触も強くなる。
目には見えない。それでも、そこにある。普段の魔法とは違う強さでウェルの身体へ絡みつき、本人の意思とは無関係に動かしている何かが。
トッキーは剣を振らなかった。焦って外せば、次に同じ場所へ触れられる保証はない。
「兄上、もう少しだけ頼む」
「ああ」
ライトスは短く答え、守護魔法をさらに強めた。ウェルの身体が大きく揺れる。それでも止まらず、伸ばした腕をユキネへ向けた。
ユキネが半歩前へ出る。
「私が受けます」
「駄目です! 今は受けなくていい。僕たちが止めます!」
ライトスが即座に制すると、ユキネは剣を握ったまま踏みとどまった。弟の攻撃を自分が受ければ、姉は守れる。だが、それではウェルを救うことにはならない。迷いを押し込め、レインの前を離れずに構え直す。
その背後から、レインが呼びかけた。
「ウェル。ここにいます。私も、ユキネも。あなたが戻るなら、ちゃんとここで待っています」
ウェルの表情は変わらない。だが、ライトスの魔法が強まった瞬間だけ、伸ばされた指がわずかに震えた。
「ライトス団長。今、ウェルの手が止まりました」
「僕も見ました」
本人が戻ったとは言えない。それでも、支配する力が弱まったことで身体の動きに綻びが生じた。レインは弟へ駆け寄らず、その変化を見逃さなかった。
ライトスは守護魔法を維持したまま、トッキーを横目で確かめた。魔力はすでに剣先まで届いている。だが、その先にあるものを斬ろうとすれば、剣へ余計な力が入って流れが乱れる。剣士として振るえば魔力が消え、魔法として扱おうとすれば剣が止まる。
トッキーは構えを変えた。剣技と魔力を別々に扱うのではなく、踏み込みから腰、肩、腕、剣先までを1つの動きとしてつなげようとしている。
ライトスが守護魔法を重ねる。ウェルの身体が止まりかけた瞬間、トッキーは自ら踏み込み、剣を振った。
刃が肉体へ届くより先に、剣先から魔力が伸びる。見えない何かへ絡みつくような重い感触が返ってきても、トッキーは腕力で押し切ろうとはしなかった。剣の動きに魔力を沿わせ、その抵抗の向こうへ刃を走らせる。
一瞬、剣が止まりかけた。
ライトスは弟の動きから狙いを悟り、守護魔法をさらに深く作用させた。重かった感触が薄れたのだろう。トッキーの目が変わる。
ここまでの連携に、決められた手順などなかった。ライトスにできるのは、ウェル本人を傷つけず、身体へ絡みつく力だけを弱めること。そして、弟が剣先で捉えたものを見失わないよう、同じ状態を作り続けることだった。
「今だ!」
合図を送ったのはトッキーだった。兄の魔法が作った変化を、自分の剣で感じ取っている。
剣が振り抜かれた。
音も光もなかった。ただ、トッキーの剣を押し返していた抵抗が消え、同時にライトスの守護魔法へ抗っていた力も途絶えた。ウェルの身体から張りつめていたものが抜け落ち、膝が崩れる。
「ウェル!」
レインとユキネが駆け寄った。ライトスはすぐには守護魔法を解かず、トッキーも剣を下ろしたまま周囲を警戒する。
レインは床へ膝をつき、倒れた弟の上半身を抱き起こした。ユキネはその横で手を取り、顔を覗き込む。
ライトスは、すぐに2人へ近づきたい気持ちを抑えた。切断したものが本当に消えたのか、ウェルが再び姉たちへ腕を伸ばさないか、確かめなければならない。守るために必要な警戒を解くのは、弟の目に本人の意思が戻ったと確認してからだった。
「ウェル。聞こえますか」
返事はない。レインがもう1度名前を呼ぶと、瞼が動いた。ゆっくりと開いた目は、最初にレイン、次にユキネ、そして少し離れたライトスとトッキーを捉えた。
「……姉上?」
「はい。ここにいます」
「ユキネ姉上も……」
「います。ずっとここにいます」
その目から、先ほどまでの冷たさは消えていた。
「僕は……また、やりましたか」
ユキネが答えかけて止まる。代わりにレインが、ウェルの目を見て告げた。
「私たちへ向かってきました。でも、誰も傷ついていません。あなたの意思ではありませんでした。呼びかけても反応せず、何かが変わっていたことを、私たちは見ています」
ウェルは目を閉じ、しばらく黙った後、初めて何にも止められず言葉を続けた。
「父上の時も同じでした。意識がなくなって、戻った時には終わっていました。でも、何をしたのかは分かった。次が姉上たちだってことも、分かっていたんです」
ユキネの指に力が入る。それは、何度尋ねても途中で止まっていた言葉の先だった。
「だから、あの時……」
「逃げてほしかった。近づかないでほしかった。でも、そう言おうとすると声が出なかった。暗号なら分からないかもしれないと思って、マウクに渡しました。ちゃんと書けていたかは、自信がなかったけど」
バラバラだった事実が、ようやく1本につながる。だが、ライトスがレインの顔に見たのは、答えを得た安堵ではなかった。助けを求める言葉だけを奪われていた弟への痛みだった。
ユキネも、ただ悲しみに沈んではいなかった。ウェルの言葉を一つも取りこぼさないように耳を傾けながら、握った手の温度と指の動きを確かめている。剣を向けてきたのが弟の意思ではないと分かっても、身体に異変が残っていないとは限らない。その警戒だけは、姉としてそばにいる今も失っていなかった。
「もう大丈夫です。今は言えています。あなたの言葉を、私は聞いています」
ウェルは小さくうなずいた。その手から急速に力が失われていることに、ユキネが気づく。
「ウェル?」
呼び方に王女としての距離を置く余裕はなかった。ライトスもすぐそばへ膝をつく。先ほどまで身体を無理に動かしていた力は、もう感じられない。それと入れ替わるように、ウェル自身の身体が力を失っていた。
「人を呼びます」
立ち上がろうとしたライトスを、ウェルの弱い声が止めた。
「待ってください。まだ……話せるうちに」
「治療が先です。話はその後でいくらでもできます」
「姉上」
その呼び方に、レインは動けなくなった。
「帰りたかったんです。クラストに。姉上たちのところに。父上にも、ちゃんと説明して……マウクにも、心配させたって謝りたかった」
途切れ途切れの声だったが、もう言葉そのものを止めるものはいない。
「帰ってきました」
レインは涙を拭わずに答えた。
「形がどうであっても、今ここで私たちと話しているあなたはウェルです。私はそう思います」
それは慰めるためだけの言葉ではなかった。レインは、誰かに判断を委ねることなく、目の前で自分たちを案じている弟をウェル本人として受け止めると決めていた。短い時間しか残されていないと分かっても、その決断を曖昧にはしなかった。
「私もです。だから勝手にいなくならないでください。まだ、あなたに言いたいことがたくさんあります」
ユキネが弟の手を強く握ると、ウェルはわずかに笑った。
「ユキネ姉上は……昔から、そういう言い方ですね」
「今、昔話でごまかさないでください」
その声は震えていた。ウェルは2人を見つめた後、ライトスとトッキーへ視線を移した。
「ライトス団長。トッキー団長。ありがとうございました。僕を……僕のまま戻してくれて」
トッキーは自分の剣へ目を落とした。技を完成させた喜びなど、そこにはなかった。
「礼を言われるようなことじゃありません」
「それでも、言わせてください。姉上たちを……2人を、幸せにしてください」
トッキーは一瞬だけレインを見た。冗談で返す場面ではない。
「約束します」
ライトスもユキネを見る。彼女は泣きながらも、弟の手を離していなかった。
「僕も約束します」
口にした約束の重さを、ライトスは分かっていた。それでも、この場をやり過ごすための言葉にはしなかった。ウェルが自分の言葉を取り戻して最後に託した願いを、守るべきものとして受け取った。
ウェルの表情が、ようやく穏やかになった。
「よかった。姉上、ありがとう。ユキネ姉上も……ありがとう」
「何にですか」
「姉でいてくれて、僕の自慢の...」
レインは声を上げて泣いた。王位継承第1位としてでも、父を失った王女としてでもない。ただ、弟を失う姉として。
ユキネは俯かず、最後までウェルの顔を見た。
「ウェル。私も、あなたの姉でよかったです」
ウェルの目が細くなる。返事はもう聞こえなかった。握っていた指から、ゆっくりと力が抜けていく。
レインが名前を呼び、ユキネも呼んだ。
2度目はなかった。
ウェルは黄泉の世界へ旅立ったのだ。




