第50話 言えない警告
石床へ押さえつけられたウェルは、頬に伝わる冷たさよりも、自分の指に残る感触から逃れられなかった。
背中へ膝を当てられ、両腕を後ろへねじ上げられる。
「動くな!」
近衛兵の怒号が耳元で響いた。
ウェルは抵抗しなかった。できなかったのではない。抵抗する理由がなかった。
視線の先には、動かなくなったアーグの身体がある。その少し向こうに、床へ落ちた首があった。
自分の父だった。
そして、自分が殺した。
父へ返事をしようとしたところで、意識は途切れている。何を考え、どう動いたのか、自分の意思として思い出せるものは何もない。
それなのに、身体が何をしたのかは知っていた。
父を床へ倒したこと。首へ両手をかけ、力を込めたこと。その間、自分が何も感じていなかったこと。
自分の意思で動いた記憶ではない。それでも、自分の目と手が行ったこととして頭に残り、指には父の首へ触れた感触まで消えずに残っている。
「なぜ陛下を殺した!」
近衛兵の1人が叫んだ。
ウェルは床を見たまま答える。
「……分かりません」
腕を押さえる力が増した。
「分からないだと?」
「父上へ返事をしようとしたところで、僕の意識は途切れました。でも、僕の身体が父上を殺したことは覚えています」
「自分がやったのに、自分の意思ではないと言うつもりか」
ウェルは返す言葉を失った。
自分でも信じられない説明だった。人を殺した。それも父を。手をかけた感触まで覚えているのに、その時の自分の意思だけがない。
「僕がやりました」
声が震えた。
「でも、どうして身体が動いたのか分からないんです」
近衛兵たちが一瞬黙った。
信じろという方が無理だった。ウェル自身でさえ、目の前の光景がなければ受け入れられなかっただろう。
近衛兵に問われれば、起きたことを隠すつもりはなかった。父を殺した手が自分のものだという事実から逃げれば、姉たちへ迫る危険にも向き合えなくなる。だが、知らない理由を作って答えることもできなかった。
「誰かに命じられたのか」
低い声が落ちてきた。
ウェルは顔を上げかけた。
命じられた。
その言葉に触れた瞬間、頭の奥へ2人の姿が浮かんだ。
レイン。
ユキネ。
「……え?」
息が止まった。
父の死から連想したのではない。考えて辿り着いたのでもない。
父の次は、2人だ。
その事実だけが、初めから自分の中へ埋め込まれていたもののようにはっきりしていた。
「姉上たちが……」
言葉が止まった。
ウェルは息を吸う。
「レイン姉上と、ユキネが――」
そこまでは言える。
危ない。逃げて。僕に近づかないで。
頭の中には言葉がある。だが、口にしようとした瞬間、そこから先だけが抜け落ちる。
「王女殿下たちが何だ」
近衛兵が問い返した。
ウェルは唇を動かしたが、声にならなかった。
「答えろ」
「姉上たちが……」
また同じところで止まる。
喉が塞がっているわけではない。呼吸もできる。2人の名前も言える。それなのに、危険を伝える言葉だけが形にならなかった。
ウェルの顔から血の気が引いた。
アドラスを出る前、マウクへ渡した不完全な文字列が頭に浮かぶ。
あの時も、伝えようとした内容を普通の言葉では残せなかった。意味の崩れた文字を並べ、マウクに託すことしかできなかった。
今なら分かる。なぜ、あんな方法を選んだのか。
自分の中に、言わせない何かがある。
そして、その何かは自分の身体を使って父を殺した。
近衛兵がウェルの身体を起こした。
「立て」
足に力が入らず、最初の1歩でよろめく。
その時、机のそばに白い紙が見えた。
レインの書状だった。
父は最後まで封を開かなかった。
ウェルはそれを見つめた。
姉たちが自分へ託したものだった。ルートシン、シキシ、アカヤンの3騎士団長が姉たちを本人だと確認し、王命を確かめ直すために自分が王都へ戻った。
父へ全軍を止めてもらう。命令が作られた経緯を調べてもらう。そのためにここまで来た。
だが、父は書状を開かなかった。
ウェルは目を閉じた。
もう、父に読んでもらうことはできない。
「連れていくぞ」
近衛兵に背を押される。
ウェルは1度だけ振り返った。
父の身体。床へ落ちた書状。そして、先ほどまで父が座っていた椅子。
何1つ、自分が王都へ戻ってきた時に望んだ形ではなかった。
扉を出ると、廊下にいた兵たちが一斉にこちらを見た。
血の付いたウェル。後ろ手に押さえられた腕。執務室から漂う異様な空気。
詳しい説明がなくても、取り返しのつかないことが起きたと伝わっていく。
「陛下が襲われた! 誰も中へ入るな!」
近衛兵の声が廊下へ響く。
別の兵が執務室へ駆け込み、すぐに足を止めた。その後に聞こえた息を呑む音を、ウェルは振り返らずに聞いた。
「王子を拘束する。勝手に近づくな」
王子。
その呼び方が胸へ刺さった。
ウェルはクラスト王子として王都へ戻った。姉たちの無実を伝え、誤った命令を止めるためだった。
結果として残ったのは、父を殺した自分と、開かれなかった書状だけだった。
「城外の第六騎士団は、お前を連れてきた者たちか」
近衛兵に問われ、ウェルは顔を上げた。
「はい。彼らは僕を王都まで護衛してくれただけです。父上のことは何も知りません」
今度は言葉が途切れなかった。第六騎士団の護衛については話せる。
自分の罪を軽くするために、城外の兵まで巻き込ませるわけにはいかない。彼らは3騎士団長の決定に従い、自分を守ってここまで来た。それ以上の疑いを向けられる理由はなかった。
「誰の命令だ」
「アドラスでの面談で決まりました。ルートシン団長、シキシ団長、アカヤン団長が姉上たちを本人だと確認し、僕が父上へ直接説明することになったんです」
「3人とも確認したのか」
「はい。少なくとも、僕がアドラスを出立した時点では」
その後のことは知らない。王都までの道中、自分へ新しい情報は届いていなかった。
近衛兵は答えを聞くと、それ以上は問い詰めずに歩き出した。ウェルも背を押され、再び足を進める。
だが、数歩も行かないうちに、また2人の姿が頭へ浮かんだ。
レイン。
ユキネ。
次の標的。
父を殺した後だからこそ、その意味を否定できなかった。これは心配でも予感でもない。自分の中にある何かが、次に狙う相手を知らせている。
ウェルの歩みが鈍った。
「どうした」
「……何でもありません」
その言葉は簡単に出た。
ウェルは自分の返事にぞっとした。
危険だとは言えない。姉たちへ知らせてほしいとも、離れてほしいとも、自分を信用しないでほしいとも言えない。
だが、「何でもない」は言える。
自分を黙らせる力が何なのかは分からない。どうして自分の身体が父を殺したのかも分からない。
分かっているのは2つだけだった。
父を殺したのは、自分の身体だ。
そして次は、レインとユキネだ。
ウェルは奥歯を噛みしめた。
声に出せないなら、もう自分から伝える方法はない。
残っているのは、王都へ来る前にマウクへ渡した、あの不完全な紙だけだった。
読めただろうか。
意味に気づいただろうか。
何かがおかしいと、そこまで辿り着いてくれただろうか。
確かめることはできない。
王城の廊下を進みながら、ウェルはただ願った。
マウク。
お願いだ。
あの紙を捨てないで。
僕が言えないことに、気づいて。
その願いだけは、声にしなくても消されなかった。
そしてウェルの知らない場所では、レインが送ろうとしたもう1通の警告も、まだ王都へ届いていなかった。




