第42話 退路の先
北側山脈の3日目。空が白み始める前に、第七騎士団は動いた。
前夜まで兵が休んでいた第3防衛線には、盾と弓が残されている。だが、その後ろに続いていた荷車は、さらにアドラス側へ下げられていた。道の上側と下側にいた見張りも数を減らし、軍路の中央にはチョーカの旗が立っている。
2日間、交代させながら戦わせた兵たちは、声を立てずに持ち場へ散った。上側の木々へ入る隊は、敵の斥候が調べ終えた場所を避け、さらに奥から回り込む。枝を折らず、石を踏み落とさないよう間隔を空けて進んだ。下側へ回る隊は、昨日ベクナルの別働隊が使った斜面を途中まで逆にたどり、軍路から見えない高さで身を伏せる。
敵の斥候が夜のうちに確認した場所へ兵を置けば、伏兵の痕跡を残す。チョーカは敵が調べた範囲を報告させ、その外側から兵を動かしていた。
第3防衛線に残った兵は、正面から見れば明らかに少ない。
「合図までは動くな。敵が俺の旗を越えようとしてもだ。前に出た者から討とうとするな。後ろが道へ入り切るまで待て」
チョーカは全隊へ届くよう、伝令を順に走らせた。
「伏兵は、敵の退路を断つことだけを考えろ。潰そうとして狭い場所へ重なるな。正面は俺が受ける。角笛が3度鳴るまで、誰も姿を見せるな!」
命令を受けた兵たちが山中へ消える。
チョーカは師の指揮棒から外れた装飾片を、鎧の内側へ収めた。手を触れたのは一度だけだった。
*
夜が明けると、ベクナルの斥候が戻った。
「敵の荷車は後退しています。防衛線に残る兵も、昨日より少数です。道の上側と下側を調べましたが、大部隊の姿はありません」
「足跡は?」
「アドラス側へ向かうものが増えています。斜面にも跡はありますが、昨日の戦いで付いたものと見分けられません」
ベクナルは報告を聞き終えても、すぐには進軍を命じなかった。
敵は2日間、崩れずに退いた。今日はその兵を減らし、荷車まで下げている。罠を疑わせた翌朝に見せるには、あまりにも分かりやすい退却だった。
しかし、斥候が見つけたのは後方へ向かう足跡だけで、伏兵が集まった跡も、斜面を崩す仕掛けもない。見えないものを警戒して全軍を止めれば、チョーカは残る兵をアドラスへ戻せる。後方の軍と合流されれば、5,000という数の優位も薄れる。軍路を抜けてアドラスの背後へ出る任務は、敵が逃げ切っただけでも失敗に近づく。
「先頭は盾を固めろ。後続との間を空けすぎるな。斜面へは出ない。敵が退いても、旗の先まで追うな」
「攻めるのですか?」
「罠はある。だが、仕掛けるには残った兵が少なすぎる。あの団長は、自分が前に立てばこちらが来ると考えたのだろう」
ベクナルは自ら前へ出た。
「ならば、その誘いに乗ったうえで、仕掛ける前に押し潰す。曲がりを越えるたび、後方へ合図を返せ。連絡が途切れたなら、その場で止まれ」
*
ミドルンティア軍の盾が、第3防衛線へ迫った。
第七騎士団は矢を放ったが、前日までの密度はない。敵の盾が歩調をそろえたまま進み、射返された矢が石壁を越える。
「盾を下げるな! 弓兵は射たら後ろへ移れ! 敵の先頭だけを見ろ!」
チョーカの声は、少ない兵を大きく見せようとはしていなかった。押されている場所へ自ら入り、盾の隙間から突き出された槍を剣で払う。
第七騎士団の列が下がった。
1歩、さらに1歩。チョーカの旗も後ろへ移る。
ベクナルは追撃を急がせず、左右の斜面を見た。木々は静まり、伏せた兵が飛び出す気配はない。正面の敵は少なく、後方へ続く道には逃げるための空間が残っている。
「敵の旗が退きます」
「よし!先頭は歩調を保て。後続を道へ入れろ」
前列だけで追えば、反撃を受けた時に支えられない。ベクナルは曲がりごとに合図を返させながら兵を順に進ませ、狭い軍路へ戦力を重ねていった。前後の間隔を詰めすぎず、それでも先頭を孤立させないための進軍だった。
チョーカはそれを待っていた。
後方へ退く味方の最後尾が、決めていた曲がりを越える。ミドルンティア軍の先頭はチョーカの旗を追い、その後ろには長い隊列が続いていた。前へ出た兵も、まだ曲がりの向こうにいる兵も、互いの全体を見渡せない。合図を返す兵は各所に残っているが、斜面から軍路へ出られれば、その連絡も同時に断てる。
ベクナルが馬を降り、盾列の近くまで進んだ。
「止まれ!これ以上は追うな! 前を固めろ!」
正面の兵が少なすぎる。その不自然さに気づくのが、わずかに遅かった。
角笛が3度、山肌を打った。
上側の木々から矢が降り、下側の斜面から第七騎士団が軍路へ駆け上がる。狙ったのは密集した先頭ではない。道の曲がりごとに隊列を切り、前後の連絡を断つ位置だった。
「盾を外へ向けろ! 列を縮めるな! 後方は来た道を確保しろ!」
ベクナルの命令に、近くの兵はすぐ反応した。だが、その声は遠くまで届かない。上を守れば正面が薄くなり、下から上がる兵を押し返せば、狭い道で味方同士がぶつかる。後方では何が起きたか分からないまま、前へ進もうとする列と止まる列が重なった。
チョーカは退くのをやめた。
「前列、反転! ここから押し返せ!分散した敵を合流させるな!」
第七騎士団の盾が一斉に前へ出た。正面で敵を押し潰すのではなく、曲がりと斜面の間に閉じ込め、隣の隊へ加勢できないよう動きを奪っていく。
ベクナルは崩れかけた列をまとめるため、さらに前へ進む。自分が見える場所に立てば、先頭は持ち直す。実際、彼の号令を受けた兵たちは盾を組み直し、チョーカへ向けて押し返した。
その動きを見て、チョーカも旗の前へ出た。
2人の間から兵が退く。
「バウタイの後継者が、自分を餌にしたか」
「あんたなら、俺が前にいれば止まれないと思った」
「師より慎重で、師より性質が悪い」
ベクナルが剣を構えた。
踏み込みは鋭かった。狭い足場で振り回さず、チョーカの肩口へ最短で刃を走らせる。チョーカは半歩下がって受け、続く斬撃を盾の縁へ流した。
力だけで押し返せる相手ではない。ベクナルは刃を引くと同時に体勢を変え、チョーカの退く側へ先回りする。
だが、その1歩をチョーカは待っていた。
後ろへ退くと見せた足を止め、ベクナルの剣を外へ弾く。空いた胴へ踏み込み、鎧の継ぎ目へ剣を突き入れた。
ベクナルの身体が揺れる。それでも剣を離さず、最後までチョーカの旗を見ていた。
「最初から……ここか」
「違う。あんたが2日間で選んだ道が、ここにした」
剣を抜くと、ベクナルは軍路へ膝をつき、そのまま倒れた。
チョーカは血の付いた剣を上げる。
「敵将ベクナルは討った! 武器を捨てた者は斬るな! 逃げ道を塞ぎ、降伏を命じろ!」
第七騎士団の声が、分断された軍路を端から端へ走った。ベクナルの命令を待っていた先頭が武器を置くと、その声は曲がりの向こうにも伝わる。指揮官の姿も隣の隊の状況も見えない兵たちは、孤立した場所から順に抵抗をやめていった。
*
戦いが終わったのは、日が傾き始めた頃だった。
ミドルンティア軍はベクナルを失い、曲がりごとに分けられたまま抵抗を続けることができなかった。武器を置いた兵は隊ごとにまとめられ、負傷者は敵味方を分けずに手当てを受けている。
第七騎士団にも倒れた者はいた。チョーカは勝ち声を上げさせる前に人数を確かめ、動けない者を後方の荷車へ乗せるよう命じた。
「捕虜から武器を離せ。歩ける者には負傷者を運ばせろ。俺たちはアドラスへ戻る。隊列を崩すな。勝った後に兵を失うな!」
チョーカは伝令を先行させ、第一遊撃団へ捕虜の受け入れを求めた。捕虜を抱えたまま谷へ戻れば、第七騎士団は負傷者と前後の警戒を同時に守れない。軍路の要所に兵を残し、受け入れ隊が来るまで武器を置いた者を動かさなかった。
やがてアドラス側から確認に来た第一遊撃団と接触すると、チョーカは捕虜の状態と負傷者の数を伝え、その身柄を引き渡した。第七騎士団は護送から外れ、自軍の負傷者を連れて谷へ向かう。
3日間かけて譲った軍路を、今度は第七騎士団が戻っていく。
チョーカは途中で一度だけ振り返った。
ベクナルは愚かではなかった。疑い、調べ、兵を無駄に重ねず、それでも任務を果たすために前へ出た。だからこそ、その判断を2日かけて狭める必要があった。
鎧の内側には、師の指揮棒の装飾片がある。
チョーカはそれを取り出さなかった。
「帰るぞ。全員、足を止めるな」
第七騎士団は、アドラスへ続く道を進んだ。




