第41話 読ませない退路
北側山脈の2日目は、夜明けとともに動き始めた。
第七騎士団の前には、前日に譲った軍路が伸びている。最初の曲がりにはミドルンティア軍の盾が並び、その後方では兵が道の端へ積まれた土と石を取り除いていた。
夜の間に攻めてくることはなかった。だが、敵陣の灯りは途切れず、斜面を調べる者の気配も消えなかった。ミドルンティア軍は休みながらも、次に進む道を探り続けていた。
前日の負傷者は、治療を受けながら後方で休んでいる。歩ける者も前線へは戻していない。交代できる兵を残したまま戦線を動かすことが、第七騎士団の生還率を支えてきた。兵たちも、自分だけが早く戻ろうとはしなかった。
チョーカは第2防衛線を見回した。前日、最初の線で戦った兵は後方へ下げている。代わって前へ出た兵たちは盾を並べ、弓兵は道の上側へ散っていた。曲がりごとに置いた伝令も交代を終え、正面と斜面の報告が途切れない位置についている。
「敵は正面から来ますか?」
斥候の問いに、チョーカは下り坂の木々へ目を向けた。
「正面だけなら、昨日と同じ攻め方はしない。下側へ回る兵を出してくる」
「先に斜面を塞ぎますか?」
「塞ぐな。見張りだけを置け。敵が登ってきても、軍路へ出る前に手を出すな」
斥候の表情に戸惑いが浮かぶ。
「側面へ出られます」
「出られると思わせる。ただし、人数と進む速さは必ず知らせろ。見失うな。敵が軍路へ上がる前に止められる位置まで引きつける」
チョーカは並ぶ兵たちへ向き直った。
「昨日と同じく、追うことは禁止する。前列は正面だけを見ろ。側面へ回る敵は、斜面側へ控えさせた隊で止める。命令が届く前に陣形を変えるな!」
山に響く返事が、敵陣まで届いた。
◇
ベクナルは第七騎士団の声を聞きながら、斥候の報告を確かめていた。
「下側の斜面は、途中から傾きが緩くなります。木々に隠れて進めば、敵の防衛線の横へ出られます」
「見張りは?」
「姿は確認できません。ただ、斜面の上に折られた枝がありました。昨夜のうちに調べられた可能性があります」
こちらが見つけた道を、敵も把握している。それでも塞いでいない。
ベクナルは軍路の先へ目を向けた。正面の盾は前日より少ないように見える。側面へ兵を割けば、正面が薄くなる。それ自体は不自然ではない。だが、見つけられると分かっている隙を残した相手が、その弱点に気づいていないとは考えにくかった。
「斜面へ300。敵の横へ出ても、すぐには攻撃するな。正面がぶつかるまで待て。軍路の部隊は盾兵を先頭に進め。昨日より速く押すが、列は重ねすぎるな」
「罠だとお考えですか?」
「罠でないと決める理由がない。だが、疑うだけで止まれば、2,000に5,000を止められる。踏み込みながら確かめる」
号令が下り、ミドルンティア軍が2つに分かれた。
◇
盾の列は、前日より速く軍路を進んできた。
第七騎士団の弓兵が矢を放つ。ミドルンティア軍は盾で受けながら足を止めず、その後ろから弓を射返した。矢が石壁へ弾かれ、盾の縁へ突き立つ。
「前列は動くな! 弓兵は敵の足を止めることだけを考えろ!」
チョーカの命令に、弓兵は盾の上から見える身体ではなく、前へ出る足元を狙った。先頭が歩調を乱し、後ろの列がわずかに詰まる。
だが、敵は止まらない。前列を左右へ開き、後ろに控えていた兵をその隙間から押し出した。狭い道で列を入れ替えるのではなく、傷ついた者だけを下げ、攻撃の勢いを保っている。
盾が激しくぶつかった。
押し合いが始まった直後、下側の斜面から角笛が1度鳴った。見張りから伝令へ、敵の別働隊が側面近くまで来たという報告が渡る。
「斜面側の100人、下へ向け! 正面の盾は減らすな!」
あらかじめ待機していた兵が木々の間へ走る。正面の列から兵を抜かなかったため、盾の並びは崩れない。ほどなく剣の音が斜面から響いた。
ベクナルの別働隊は、軍路へ上がる直前で待ち受けていた兵とぶつかった。道は塞がれていなかったが、登り切ったところへ出られるほど空いてもいない。前へ進めば、上から矢を受ける。下がれば、細い斜面で味方同士が重なる。
それでも敵は崩れなかった。先頭が盾を上へ向け、後続は木の幹を利用して身体を隠しながら少しずつ間隔を広げる。退路を保ったまま、第七騎士団が斜面へ兵を増やし、軍路側の守りが薄くなるのを待っていた。
正面では、ミドルンティア軍の圧力が増していく。
「団長! 斜面へ、もう1隊回さなければ抜かれます!」
「まだ動かすな! 正面を支えろ!」
チョーカは斜面の戦いを見ず、敵の盾だけを見ていた。
側面へ兵を増やした瞬間、ベクナルは正面へ人数を重ねる。だが、斜面を放置すれば横から防衛線を切られる。どちらか一方を守り切ろうとすれば、もう一方から崩される。だからチョーカは、両方を守り切れるふりをしなかった。
角笛が2度鳴った。
チョーカは剣を抜く。
「前列は次の線まで後退! 中央は走るな! 斜面側の隊は敵を追わず、正面の最後尾と同時に戻れ!」
盾兵が前列から順に距離を取り、弓兵がその間を射撃で埋める。先に退いた兵は曲がりの先へ走り去らず、次の線で後続を受け入れるため左右へ分かれた。
側面を守っていた兵も、軍路の最後尾が通過するのに合わせて斜面を上がる。早く戻れば正面の退却を横から崩され、遅れれば斜面に取り残される。角笛と伝令の声を頼りに、双方の最後尾が歩調を合わせた。
ミドルンティア軍の別働隊は退く兵へ迫ったが、上から射られる矢と狭い足場に阻まれ、一気には追えない。正面の部隊が第2防衛線を越えた時には、第七騎士団はすでに次の曲がりへ隊列を移していた。
◇
ベクナルは、奪った防衛線の前で追撃を止めさせた。
敵は昨日より長く抵抗した。それでも、守れなくなった瞬間には迷わず退いている。正面と側面の部隊が、ほぼ同時に次の線へ収まった。
「追えば届きます」
「届くように見せている」
ベクナルは軍路に残る足跡を見た。乱れてはいるが、逃げた兵が互いを踏み越えた跡はない。捨てられた盾も、置き去りにされた負傷者もなかった。追いつけそうに見える距離だけを残しながら、追撃を受け止められる形で退いている。
「昨日は退くのが早かった。今日は、側面を破られる直前まで粘った。こちらが選んだ攻め方に合わせているようで、退く時だけは同じだ」
「罠があると?」
「あるなら、もう見えてよい。だが、伏せた兵も、崩せる斜面も見つからない。何もないことまで疑わせるつもりかもしれん」
ベクナルは次の曲がりに掲げられた第七騎士団の旗を見据えた。
「進む。ただし、今日はこれ以上追わない。斥候を増やし、道の上下と敵の後方を調べろ。見つけたものだけでなく、何もなかった場所も報告させろ」
◇
夕刻、第七騎士団は3つ目の防衛線で夜営の準備を始めた。
2日で軍路を2つ譲った。それでも隊列は保たれ、ミドルンティア軍はアドラスへ抜けていない。負傷者を後方へ移す道も、交代した兵を前へ戻す余地も残されていた。
斥候から敵の動きを聞いたチョーカは、暗くなり始めた山道を振り返った。
「敵の斥候が増えています。こちらの後方まで探るつもりです」
「探らせろ。見つかって困るものは、見える場所に置いていない」
「明日も退くのですか?」
チョーカはすぐには答えなかった。2日かけて敵へ譲った道と、その間にベクナルが選んだ攻め方を思い返す。
初日は正面を慎重に押し、2日目は側面へ兵を回しながらも退路を残した。勝ち急いではいない。罠を疑えば調べ、手応えがあっても追撃を止められる将だ。それでも、任務を捨てて立ち止まることはしなかった。
「明日、同じように退けば、アドラスへ近づけすぎる。ここまでだ」
短く告げると、兵たちを見渡した。
疲労は隠せない。それでも、命令を待つ隊列に乱れはなかった。昨日の前衛は休息を終え、今朝から戦った兵と入れ替われる。2日間、退く順序を守り続けたことで、まだ全軍を動かす余力が残っていた。
「負傷者を先に休ませろ。盾と弓を点検し、夜明け前に全隊を動かせるよう準備しろ。敵は罠を疑っている。ならば明日は、疑ったまま前へ出る理由を与える」
敵の進軍を抑え続けた2日目は、再び道を譲って終わった。
ベクナルは罠を探し始めている。それでも任務を果たすには、第七騎士団を越えて進まなければならない。
チョーカは2日間の退却で、ベクナルが疑いながらも前へ出るところまで、その選択を狭めていた。




