第39話 壊れた警告
天幕の外では、崩れた外壁へ石を運ぶ音が続いていた。
休戦中も両軍は陣を解いていない。話し合いが決裂すれば、再び戦いが始まる距離だった。
イケメーンは暗号の書かれた紙を卓上へ戻した。
「資料をここへ運ばせる。少し待ってくれ」
天幕の外に控えていた兵へ命じると、ほどなくして古びた革袋が届けられた。中から出てきたのは、書き込みの残る士官学校の教科書と、何枚かの紙だった。
マウクは教科書の表紙へ手を置いた。
「まだ持っていたのか」
「お前が仕組みを複雑にしすぎたせいだ。これを捨てれば、私でも読めなくなる」
「原案を作った君に言われたくないね」
「始めよう。昔話をしている間にも、状況は動く」
イケメーンが教科書を開き、マウクが暗号の数字を追う。数字が示しているのは、頁、行、そこから数えた文字の位置だった。だが、最初の数文字を拾ったところで、マウクの指が止まった。
「違う」
「頁を間違えたか?」
「いや、僕たちの規則なら、この数字では次の行になる。書いた人は、行の数え方を途中で間違えている」
イケメーンが別の紙へ正しい位置を書き、その横へ暗号どおりに拾った文字を並べた。
2人が何度か頁を戻り、数字のずれを確かめていく。拾い出された文字をつなげても、完全な文章にはならなかった。
「わらしはうぉらであっとうぉらではなえ……」
イケメーンが読み上げると、ミカが紙をのぞき込んだ。
「何なの、それ」
「暗号を知らない者が適当に書いたなら、ここまで規則には近づかない」
マウクは数字ごとに拾った文字と、規則から外れている箇所を別の紙へ書き分けた。行や音、数え始める位置を間違えている。それでも、正しい文字の近くまでは来ていた。
「使い方を推測した人なら、起こし得る間違いだ。ただし、先に答えを決めて文字を直せば、都合のよい文章も作れてしまう」
「つまり、暗号を見たことのある人物が書いた可能性はあっても、意味までは確定できないのですね」
ルーカは修正前の文字列から目を離さずに言った。
「そのとおりだよ。書いた者がウェル様だという証拠にもならない」
マウクは答えたが、最初の文字へ視線が戻った。
わらし。うぉら。あっとうぉらではなえ。
単なる誤りとして捨てるには、音の崩れ方が似すぎている。ウェルが書いたと仮定し、間違えそうな箇所を補えば、1つの文が浮かぶ。
――わたしはうぇるであって、うぇるではない。
だが、それを今ここで答えとして口にすれば、聞いた者は補正後の文に引かれる。まず、この暗号を作った当事者と、ウェルを自然に観察できる者の目で確かめる必要があった。
ライトスは意味の通らない文字列を追った。
「ウェル殿下が書いた可能性があるのですか?」
「まだ仮定だよ。昔、僕がこの暗号を書いているところをウェル様に見られたことがある。方法を教えたことはないけれど、あの方なら自分で考えようとはしたはずだ」
「だが、正しい規則も、この教科書を使うことも知らなかった」
イケメーンは暗号文と教科書を見比べた。
「だから、見よう見まねで作った可能性はある。だが、今はそれ以上でも、それ以下でもない」
トッキーが腕を組む。
「旧街道の話と重なった以上、無視はできないな」
「うん。でも、この紙だけでアドラスにいる方を偽物だと断定すれば、僕たちも事実を確かめずに動くことになる」
マウクは修正前の文字列を残したまま、教科書を閉じた。
「アドラスへ戻ったら、ウェル様の様子を知る者にも、変わったところがなかったか確かめる。ただし、この文面を広めるのはまだ早い。今、ウェル様は第六騎士団の護衛と王都へ向かっている」
ミカの表情が険しくなった。
「王都へ?」
「アーグ陛下へ、レイン殿下とユキネ殿下が本物だと直接説明するためです」
「この紙が警告なら、王都へ行かせたこと自体が危険かもしれないわ」
「だから急いで確かめる。でも、もう1つ伝えなければならないことがある」
マウクは卓上の地図を北へずらした。
「アドラスの北側山脈で、軍が通れる隠し軍路が見つかった」
イケメーンの目が地図へ落ちる。
「どこへ続いている?」
「まだ全容は分からない。ただ、クラスト国内から山脈の奥へ続き、第六騎士団の秘密別働隊が物資を運び込んでいた。さらに、ミドルンティア軍約5,000が、その道からアドラスの背後へ接近している」
ルーカはすぐに街道と山脈の距離を指で測った。
「旗印と鎧は確認している。ただし、誰が道を整備し、クラスト側の誰が通したのかまでは分かっていない」
「それで救援軍を2つに分けたのか」
「はい。チョーカが第七騎士団2,000を率いて、北側山脈へ向かっています。こちらへ来たのは第七騎士団1,000と、第二・第三遊撃団の各500です」
「5,000に2,000。しかも、向こうはクラスト側の協力を得て物資を運び込んでいる」
フクシンは険しい顔で地図を見た。
「この砦の戦いを止められるなら、第七騎士団の1,000を北へ戻すべきではありませんか?」
「それでも3,000です。敵は軍路を使って来ている。地形を知らずに迷い込んだ軍とは考えない方がよいでしょう」
ルーカの指が、今度は灰壁砦から北側山脈へ移った。
「こちらから兵を出すことも検討すべきです。軍路がストログ側へ通じているなら、我が国にも無関係ではありません。ただし、今から動いて間に合うかを先に確かめる必要があります」
「もう戦いが始まっている可能性もあるわ」
ミカは地図上の山道を見つめた。
「チョーカが自分で2,000を率いて向かったのなら、兵数を見誤ったわけではないでしょうね」
「それでも、援軍を送らずに済む理由にはなりません」
「分かっているわ。間に合う兵がいるなら送るべきよ。ただ、数が少ないというだけで、チョーカの判断まで誤りと決めるべきではないと言っているの」
天幕の中に焦りが広がる中、マウクとイケメーンだけが顔を見合わせた。
先に息を吐いたのは、イケメーンだった。
「相手は気の毒だな」
フクシンが振り返る。
「団長?」
「数で勝っているから押し切れると思っているなら、なおさらだ。チョーカの前で、自分たちが有利だと信じたまま軍を動かすことになる」
マウクも困ったように笑った。
「僕も、心配するならチョーカより相手の方だと思うよ」
「2人とも、昔からチョーカを知っているのね」
ミカは驚くよりも、判断の根拠を求めるように言った。
「僕は兵数を軽く見ているわけじゃない。敵の指揮官が地形を知っている可能性も考えた。そのうえで、2,000で対応できるのはチョーカだけだと判断したんだ」
マウクは軍路へ指を置いた。
「彼は、敵がどこを見て、何を有利だと思い、次にどう動くかを考える。そして、相手自身に選ばせたと思わせたまま、自分の望む場所へ連れていく」
「士官学校の部隊運用試験を満点で通った男だ。私も何度か盤上で戦ったが、勝ち筋が見えた時ほど危なかった」
イケメーンの口元には笑みがあったが、言葉に冗談の響きはない。
「ただし、チョーカは勝ち方より、負けない形を先に作る。5,000を前にして勝ち目がなければ、兵を無駄に死なせる男でもない」
「だから援軍を送らなくてよい、と?」
ライトスが確かめると、マウクは首を横へ振った。
「送れる援軍があり、間に合うなら送るべきだよ。でも、具体的な戦術を決めるのは、現地の地形と敵を見ているチョーカだ」
イケメーンは老斥候へ顔を向ける。
「北側山脈へ向かえ。軍路がストログ側へつながっていないか調べろ。ただし、ミドルンティア軍ともクラスト軍とも戦うな。確認した情報は、私へ直接届けよ」
「承知しました」
老斥候は地図上の位置を確かめ、すぐに天幕を出た。
イケメーンはルーカとフクシンを順に見た。
「クラストとの戦いは止める。ウェル殿下の処刑、消えた遺体、旧街道を通ったという説明、そして北側の軍路。別々に起きたと考えるには、重なりすぎている」
「ストログへ戻るのですね」
「ああ。ナーカマ陛下へ直接報告し、途中で止められた記録と命令を調べる。軍にも帰還の準備を命じる」
フクシンが姿勢を正した。
「直ちに伝えます」
「ただし、休戦が両軍へ伝わるまで隊列を保て。負傷者を先に動かし、帰路の警戒を怠るな」
「承知しました」
命令を終えたイケメーンは、マウクへ向き直った。
「私はストログで調べる。お前はアドラスへ戻り、この紙と王都へ向かったウェル殿下を追え」
「分かった。互いに分かったことは、今度こそ途中で消されない方法で伝えよう」
「チョーカにも生きて戻れと伝えてくれ。3人分の酒を、2人で飲むつもりはない」
「それは僕も同じだよ」
マウクは暗号文を折り直し、上着の内側へしまった。
灰壁砦の戦いは止まった。
だが、ウェルが残した壊れた言葉は、王都への道と北側山脈の奥にある異変を、初めて1つの疑いへ結びつけていた。




