第36話 夜明けの分岐
夜明け前のアドラスでは、谷の各所で松明が揺れていた。
第七騎士団の野営地では、3,000人の兵が2つの隊列へ分かれている。北側山脈へ向かう2,000人と、灰壁砦の救援に加わる1,000人。それぞれに食料と水、矢、治療道具が配られ、荷車の数も調整されていた。
ライトスは第二遊撃団の前を歩き、装備と馬の状態を確かめた。
「灰壁砦までは、第三遊撃団と第七騎士団の隊列を崩さずに進む。先行偵察から報告が届いても、勝手に本隊を離れるな」
兵たちの返事が重なる。
ガランが物資の記録を持って戻ってきた。
「団長、第二遊撃団の準備は完了しました。負傷者用の担架と治療道具も追加しています」
「第三騎士団がどれだけ消耗しているか分からない。余裕があるなら、そのまま持っていく」
「分かりました。騎乗できない負傷者が多い場合に備えて、荷車も空けてあります」
ガランが次の確認へ向かうと、今度はキュリが弓兵を率いて歩み寄ってきた。
「弓と矢の確認は終わりました。予備の弦も持たせています」
「灰壁砦へ近づいたら、周囲の高所を確認してくれ。ただし、第三遊撃団の偵察より先には出るな」
「承知しました。敵の位置が分からないうちは、勝手に離れません」
キュリは答えながら、第二遊撃団の隊列へ入ったユキネへ視線を向けた。
ユキネは王女用の目立つ装具を外し、第二遊撃団が用意した外套を身につけている。自分の馬の鞍を確かめる姿に、不安を見せる様子はなかった。
「ユキネ殿下。出発後は隊列の中央に入ってください。戦闘になった場合、僕が安全な位置を指示します」
「承知しています。第三騎士団へ私の姿を見せる必要があっても、1人では前へ出ません」
すでに軍議で交わした条件を、ユキネは迷いなく答えた。
「お願いします」
「ライトスも、私を守ることだけに気を取られないでください。あなたは500人の団長なのですから」
「もちろんです。全員を連れて帰るために行きます」
ユキネはその答えを聞き、静かにうなずいた。
キュリが2人のそばまで来ると、ライトスの肩口へ目を止めた。
「ライトス団長、少し動かないでください」
「どうした?」
「外套の留め紐がねじれています。このまま走ったら、肩へ食い込みますよ」
キュリは返事を待たずに手を伸ばした。革紐を外し、ライトスの胸元へ顔を寄せて通し直す。戦いの前に互いの装備を確かめることは珍しくない。それでも、指先が襟元へ触れた瞬間、ライトスは思わず背筋を伸ばした。
「苦しくありませんか?」
「あ、ああ。大丈夫だ」
「じっとしていてください。まだ終わっていませんから」
キュリは紐を結び直し、最後に肩を軽く引いて緩みがないことを確かめた。顔を上げると、すぐそばにあるライトスの目を見て笑う。
「これで大丈夫です。団長が途中で動けなくなったら、私たちが困りますから」
ライトスが礼を言うより先に、ユキネが1歩近づいた。
「ずいぶん慣れているのですね、キュリ」
「同じ部隊ですから。ライトス団長の装備は、何度も見ています」
キュリは身分差を意識して引くこともなく、いつもの調子で答えた。ユキネは結び直された紐を見た後、ライトスの腰へ視線を移す。
「では、こちらは私が確認します。剣帯が少し下がっています」
「殿下、これは自分で――」
「動かないでください。キュリの時は、動かなかったのでしょう?」
ユキネは外套越しに剣帯の位置を直した。必要な確認だと分かっていても、王女本人に装備へ触れられたことで、ライトスの身体が再び固くなる。
その様子を見逃さず、キュリがわずかに目を細めた。
「殿下。近くに敵が入った時は、その剣でライトス団長の隣に立たれるおつもりですか?」
「その必要があれば。守られるだけで同行するつもりはありません」
「それなら、私は少し離れたところからお2人を守ります。弓兵ですから」
「頼りにしています。ただし、ライトスだけを見て高所の敵を見落とさないでください」
「殿下も、ライトス団長だけを守ろうとして、隊列から離れないでくださいね」
互いの役目を確かめる言葉なのに、声の奥には別のものが混じっていた。ユキネは目をそらさず、キュリも笑みを消さない。
ライトスは2人の間に立ったまま、自分の装備にそれほど不備があったのかと肩口と腰へ手を当てた。
「2人とも、ありがとう。これなら問題なく動ける」
ユキネとキュリが、ほとんど同時にライトスを見る。
「……そういう話ではありません」
「本当に気づかれないのですね」
2人の声が重なった。今度は互いに顔を見合わせたが、先に笑ったのはキュリだった。
「殿下の近くには、私の弓兵も置きます。前だけでなく、斜面も見るように伝えてありますから」
「ありがとうございます。戦場では、あなたの目を信頼しています」
「はい。お礼は、全員で戻ってからで構いません」
火花を消したわけではない。それでも2人は、それを戦場へ持ち込むほど幼くなかった。キュリは弓兵の配置へ戻り、ユキネも馬のそばへ立つ。残されたライトスだけが、重なった言葉の意味を分からないまま首をかしげていた。
少し離れた場所では、トッキーが第三遊撃団へ指示を出していた。
「先頭だけ急ぐな! 灰壁砦へ着く前に隊列を伸ばせば、救援どころではなくなるぞ。第二遊撃団との間隔を保て!」
ライトスに気づくと、トッキーが歩み寄ってくる。
「こちらはいつでも出られる」
「灰壁砦へ近づいた後は、第三遊撃団に周辺の確認を頼みたい。僕たちは守りを固める」
「ああ。ミカ殿たちと合流できるまでは、同じクラスト軍でもこちらを信用するとは限らない。先にユキネ殿下の姿が見える位置を探す」
「頼む。ただし、ストログ軍が迫っていたら無理に近づくな」
「分かっている。兄上に助けられた砦で、今度は勝手に倒れるつもりはない」
トッキーはライトスの肩を軽くたたき、自分の部隊へ戻った。
*
ルイセンの屋敷前では、北側山脈へ向かうチョーカが、ナキソウから軍路の位置を聞いていた。
「ミドルンティア軍を確認したのは、この曲がりの先です。最後尾までは見えませんでした」
ナキソウが地図を指す。
「十分だ。軍路の入口と進行方向が分かれば、後はこちらで確かめる」
「第一遊撃団でも北側の監視を続けます。進路が変われば、使者を送ります」
「お願いします。こちらからも報告を返します」
第七騎士団の旗は必要なものだけを残し、山中で隊列が目立ちすぎないようまとめられている。チョーカは偵察で作られた地図を見直した後、北側山脈へ向かう2,000人の隊列を確かめた。
そこへマウクが来た。
「チョーカ。2,000で足りると言ったのは僕だけど、無理に勝ちにいく必要はないからね」
「今さら心配になったのか?」
「最初から心配しているよ。君なら止められると思っていることと、安全だと思うことは別だから」
チョーカは地図を畳み、マウクへ返した。
「戦い方は、現地を見て決める。敵が5,000いるからといって、5,000人全員と同時に戦うつもりはない」
「それならいい。僕も灰壁砦で、こちらが終わる前に戻れるよう動くよ」
「軍を率いるわけでもないのに、簡単に言うな」
「分かっている。僕にできるのは、戦う理由を確かめることだけだ」
チョーカは一度だけマウクの肩へ手を置いた。
「そちらにはライトスとトッキーがいる。余計なことをせず、2人の指示に従え」
「君までシャルンと同じことを言うのか」
「言われる理由を考えろ」
チョーカはそれ以上続けず、待機する第七騎士団へ向かった。
*
空が白み始めた頃、レインとシャルンが屋敷の前へ出てきた。
レインはユキネの両手を握る。
「第三騎士団を救うことは必要です。ですが、あなた自身が戻ることも同じくらい大切です」
「分かっています、姉上。ウェルが王都へ向かった今、私まで勝手な行動はしません」
「必ず、ライトスたちと一緒に帰ってください」
「はい」
姉妹が離れると、シャルンはマウクへ書類を差し出した。救援要請の写しと、これまでに確認された軍令を整理したものだった。
「ミカ様へ説明する際に必要となる可能性があります。濡らさないでください」
「大切に持っていくよ」
「なくさないでください。危険を感じたら、自分で確かめようとせず、ライトス様かトッキー様へ伝えてください」
「チョーカにも同じようなことを言われたところだよ」
「それなら、2人分を守ってください」
マウクは困ったように笑ったが、書類を上着の内側へ収めた。
ジルバが谷の入口に立ち、出発する両部隊を見渡す。
「アドラスは第五騎士団と第一遊撃団が守る。正面の3騎士団に動きがあっても、使者を出すまでは任務を変えるな。北側迎撃隊はチョーカ、灰壁砦救援隊は各団長が連携し、それぞれの部隊を指揮しろ」
チョーカ、ライトス、トッキーが返事をする。
最初に動いたのは、北側山脈へ向かう第七騎士団2,000人だった。チョーカを先頭に、谷の北側へ続く道を進んでいく。
続いて、第七騎士団1,000人と第二、第三遊撃団を合わせた救援隊が、灰壁砦へ向けて出発した。ユキネとマウクは第二遊撃団の隊列へ入り、キュリは弓兵を率いてその周囲を固める。
谷を出た先で、2つの軍勢は別々の道へ分かれた。
ライトスは遠ざかるチョーカの旗を一度だけ振り返り、すぐに灰壁砦へ続く道へ視線を戻した。
北側山脈では、5,000の軍勢が迫っている。
灰壁砦では、第三騎士団が救援を待っている。
アドラスの正面には、なお3つの騎士団が残っていた。
夜明けとともに分かれた兵たちは、それぞれの戦場へ向かい始めた。




