第35話 内政官の地図
ルイセンの屋敷にある軍議の間では、3方向から届いた報告が、1枚の地図へ集められていた。
谷の正面には、停戦中の第一、第四、第六騎士団。北側山脈には、隠し軍路を進むミドルンティア軍約5,000。そして灰壁砦では、第三騎士団が救援を求めている。
机を囲むのは、レイン、ユキネ、ルイセン、ゴハール、ジルバ、チョーカ、シャーウ、ライトス、トッキー、マウク、シャルンだった。
ライトスは、地図の中央に置かれたアドラスから3方向へ目を移した。第二遊撃団だけを見れば、灰壁砦へ向かうべきだと思う。だが、谷を守る兵まで救援へ出せば、残るレインたちと領民を危険にさらす。自分の500人をどこへ動かすかではなく、ここにいる全軍をどう分けるかを決めなければならなかった。
ジルバは地図から顔を上げる。
「第五騎士団を北側へ向ければ、谷の正面が薄くなる。灰壁砦へ送れば、ミドルンティア軍が背後へ出る。どちらかを捨てるわけにもいかん」
「第七騎士団で北側を受ける」
チョーカが隠し軍路を指した。
「全軍3,000を動かせば、灰壁砦へ回す兵がいなくなります」
シャーウの指摘に、チョーカも黙る。
「北側の軍勢は進行中です。正面の3騎士団は停戦しているだけで、撤退していません。どちらかを安全と見なして監視を外すことはできません」
シャーウは、確認済みの情報だけを地図の上へ置いた。第二、第三遊撃団を加えても、正面の3騎士団を警戒しながら、北側と灰壁砦の両方へ十分な兵を出すことは難しい。
レインは、灰壁砦を示す印へ目を落とした。
「第三騎士団も、正面にいる3騎士団も、同じクラストの兵です。どこかを守るために、別の者たちを見捨てる決定はできません。全てを救える可能性があるなら、まずそれを聞かせてください」
穏やかな声だったが、誰かに決断を預ける言葉ではなかった。その場にいる全員へ、3方向のうち1つを初めから切り捨てないよう求めていた。
ゴハールは椅子へ背を預けたまま、マウクを見た。
「マウク。お前が軍師なら、どうする?」
突然向けられた問いに、マウクは筆を止めた。
「僕は内政官です。兵を率いたこともありません」
「肩書きを聞いておるのではない。今ある兵で、3つの場所をどう守るかを聞いておる」
マウクはすぐには答えなかった。各部隊の位置と、そこから目的地までの道を紙へ書き写す。次に、軍勢の横へ指揮官の名を置いた。
ライトスは、マウクが兵数だけで線を引いていないことに気づいた。道の広さと部隊の役割、その先へ誰を置くかまで見ている。軍を率いた経験がないという言葉は嘘ではない。それでも、軍勢を動かす前に人と物資の流れを整理するやり方は、内政官として積み重ねてきたものだった。
「僕なら、北側山脈へ第七騎士団2,000を向けます。指揮はチョーカです」
「敵は約5,000だぞ」
トッキーが軍路へ目を向ける。
「平地で正面から戦えば不利です。でも、発見された軍路は山の中にあります。5,000人全員が同時に戦える場所ではありません。兵数ではなく、山中で部隊を動かす力を基準にするなら、チョーカ以上の適任はいません」
チョーカは地図を見たまま尋ねる。
「2,000で勝てると言うのか?」
「戦い方まで僕には決められないよ。ただ、谷へ到達させず、第七騎士団を生きて戻せる人物を選ぶなら、君だと思っている」
チョーカはしばらく黙り、やがて小さく息を吐いた。
「分かった。だが、具体的な布陣は現地を見て俺が決める」
「もちろんだよ」
マウクは灰壁砦へ線を引いた。
「残る第七騎士団1,000に、第二遊撃団500、第三遊撃団500を加え、計2,000を灰壁砦へ送ります。目的は獅子騎士団を倒すことではありません。第三騎士団と合流し、戦う理由を確かめることです」
「遊撃団だけでは足りないのか?」
ライトスの問いに、マウクは灰壁砦へ至る道を示した。
「第二、第三遊撃団は移動と状況への対応に優れています。ただ、負傷者を抱えた第三騎士団と合流した後、砦や退路を守る兵も必要です。第七騎士団1,000を加えれば、遊撃団をその場へ縛りつけずに済みます」
「俺と兄上の部隊を両方出すのか」
「片方だけでは、到着後の守りが足りない。第三騎士団がこちらを敵と判断する可能性もある。別々の進路を取らず、同じ救援隊として動いてほしい」
ライトスはトッキーを見た。兄弟であっても、それぞれの遊撃団を率いる立場は同じだった。
「第二遊撃団500、全員を出せます」
「第三遊撃団も同じだ。兄上と協力して灰壁砦へ入る」
2人の返答を聞き、マウクは自分の名も灰壁砦の横へ書いた。
「僕も同行します。第三騎士団と獅子騎士団が、何を命じられ、何を事実として確認したのかを整理する必要があります」
「危険ですよ、マウク様」
シャルンが思わず口を挟む。
「分かっている。でも、戦う理由が食い違っているなら、書類と情報をつなげられる者が現地にいた方がいい」
「それなら、私も灰壁砦へ参ります」
ユキネの言葉に、レインが振り向いた。
「ユキネまで行く必要はありません」
ユキネは姉の前から目をそらさなかった。
「第三騎士団が私たちを偽物だと教えられているなら、本人が向かわなければ疑いは残ります。姉上がアドラスに残れば、正面の3騎士団との停戦も維持できます。私が加わる条件は、第二遊撃団と行動し、救援隊から離れないことです」
ユキネはライトスを見る。ライトスは危険を考えたが、第三騎士団へ王命の誤りを示すには、王女本人の存在が何より確かだった。
「僕たちが必ずお守りします。ただし、戦闘になった場合は僕の指示に従ってください」
「分かりました」
レインは不安を隠せなかった。それでも、姉として引き止めることと、王族として必要な役目を判断することを分けるように、地図へ視線を戻した。
「分かりました。私はアドラスに残り、正面の3騎士団との停戦を守ります。あなたは第三騎士団へ、私たちがクラストと戦うために戻ったのではないと伝えてください。必ず救援隊と行動し、戻ること。ウェルが王都へ向かう今、あなたまで失うわけにはいきません」
「はい、姉上」
マウクは最後に、谷の正面を示した。
「アドラスには第五騎士団を残し、第一遊撃団と連携させます。正面の3騎士団だけでなく、第六騎士団の別働隊にも備える必要があります。領地軍には谷の内側と避難路を守ってもらいます」
シャーウがうなずく。
「第一遊撃団は、3つの陣と北側を分けて監視します。異変があれば第五騎士団へ直接伝えます」
「領地軍は、谷の地形と避難路なら誰より知っておる」
ルイセンが地図の内側へ手を置いた。
「第五騎士団の代わりに正面へ出すことはできんが、領民を守り、谷へ入り込んだ敵を止める役目は果たせる。外の守りはジルバ殿とシャーウ殿に任せよう」
「助かります。第五騎士団は入口を支え、第一遊撃団から届く情報で動きます」
ジルバの返答で、谷に残る側の役割も定まった。
「シャルンにはアドラスへ残ってもらいたい。新しい情報を整理し、状況が変わった時の対応案をレイン殿下へ伝えてほしい」
シャルンは、地図に書き込まれた人名と兵数を順に確認した。
「承知しました。ただし、3方向からの報告は到着した時刻と、確認した者を分けて記録します。北側山脈と灰壁砦の情報を同時刻のものとして扱えば、判断を誤ります」
誰も異論を挟まない。シャルンはマウクへ向き直った。
「マウク様も、報告を忘れないでください。推測ではなく、現地で確認できた事実を先に送ってください」
「できる限り送るよ」
説明を終えたマウクは筆を置いた。
「以上が、僕ならどうするかという案です。軍を動かす判断は、皆さんにお願いします」
シャルンがすぐに続ける。
「確認します。これはマウク様の作戦案であり、各軍への命令ではありません。採用するかどうかと、各部隊の正式な役割は、軍を指揮する方々が決める。それでよろしいですね」
「そのとおりです」
マウクが答えると、ジルバも明確にうなずいた。内政官の意見が、いつの間にか命令として扱われる余地を、シャルンは先に塞いでいた。
ジルバは地図に記された3つの役割を順に確かめ、チョーカ、シャーウ、ライトス、トッキーへ視線を向けた。全員が異論のないことを示す。
「何故お前は内政官なのだ」
ジルバの言葉に、マウクは困ったように笑った。
「僕にも、少し分からなくなってきました」
それ以上は誰も笑わなかった。地図に引かれた線の先では、すでに敵も動いている。
ジルバは立ち上がった。
「この案を採用する。北側山脈はチョーカと第七騎士団2,000。灰壁砦救援は第七騎士団1,000、第二遊撃団500、第三遊撃団500の計2,000とし、マウク殿とユキネ殿下が同行する。アドラス防衛は第五騎士団を中核に、第一遊撃団と領地軍が連携する」
続けて、決定した各部隊の準備期限を告げる。
「各部隊は夜明けまでに兵と物資を整えろ。出発時刻と経路は、準備状況を確認した後に決める」
軍議の間から、各部隊へ伝える者たちが走り出した。
同じ場所へ集まっていた軍は、初めて自分たちの判断によって分かれようとしていた。




