第26話 帰ってきた弟
ウェルと護衛兵たちを悼む旗が谷に掲げられた翌朝、東側の見張り台から鐘が鳴った。
敵襲を告げる激しい連打ではない。谷の入口へ、所属の分からない者が近づいた時の合図だった。
第二遊撃団の陣で巡回を終えたライトスは、ガランとともに入口へ向かった。夜明けの冷気がまだ谷底に残り、斜面を下る足音が湿った地面へ吸い込まれていく。
すでに第三遊撃団の兵が道を塞ぎ、第一遊撃団の者が斜面の上から周囲を確認していた。兵たちは武器を構えているが、近づく者へ切っ先を向けてはいない。ライトスが到着するまで、命じられたとおりに道だけを押さえていた。
その先に、1人の若者が立っていた。
外套は泥と枯れ葉にまみれ、片方の袖は裂けている。剣も荷も持たず、靴は長い道を歩いたためか、つま先が擦り切れていた。立っていることすら苦しいのか、肩を上下させながら、道を塞ぐ兵たちを見ている。
若者が顔を上げた瞬間、ライトスは息を止めた。
王城で遠くから何度か見たことがある。
昨日、谷に掲げられた旗が悼んでいるはずの人物だった。
「ウェル殿下……?」
ガランの声に、若者は力なく笑った。
「よかった。ここに、姉上たちはいるんだね」
声まで記憶にあるウェルのものだった。
兵たちがざわめく。ライトスは片手を上げて動きを止めると、若者の背後と街道へ目を走らせた。追手も、もう1人の旅人も見えない。斜面上の第一遊撃団員へ周辺確認を続けるよう合図し、自分はウェルへ駆け寄った。
その身体が崩れる前に受け止める。外套越しにも分かるほど冷えきっていたが、肩は小さく上下し、腕には自分で立とうとする力が残っていた。
「すぐに治癒師を。レイン殿下とユキネ殿下へ知らせろ。ただし、谷の外への伝令は出すな。周囲に追手がいないか確認してからだ。入口の警戒は崩すな」
「承知しました」
ガランが兵を走らせる。
ウェルはライトスの腕を借りながら、谷の内側へ視線を向けた。遠くに並ぶクラスト軍の旗を見つけると、張り詰めていた表情をようやく緩めた。
その安堵を見た時、ライトスの胸にも、昨日から谷を覆っていた重さがほどけていった。
*
知らせを受けたレインとユキネは、治療用の天幕へ駆け込んだ。
寝台の上で水を飲んでいたウェルが顔を上げる。そばには治癒師が付き、入口近くではライトスとガランが待機していた。
「姉上」
レインは入口で立ち尽くした。
前日、処刑を知らせる正式通告を読み、弟はもう帰らないのだと受け止めたばかりだった。目の前にいる姿を信じたいのに、足が動かない。
「ウェル……本当に、ウェルなのですか?」
「はい。遅くなって、ごめんなさい」
その答えを聞いた途端、レインは寝台へ駆け寄り、弟を抱きしめた。
「生きていた……。あなたが、生きて……」
言葉は最後まで続かなかった。
ウェルも姉の背へ腕を回す。レインの肩へ顔を伏せたまま、幼い頃と変わらない声で答えた。
「帰ってきました。姉上たちに、もう会えないと思っていました」
レインは涙を拭おうともせず、腕の中にいる弟の重みを確かめるように抱きしめ続けた。王族として何をすべきかを選び続けてきた彼女も、今だけは帰ってきた姉弟の1人だった。
ユキネも寝台のそばへ進んだ。天幕へ入るまでは周囲の警戒を忘れず、入口の兵や治癒師の位置まで見ていた。それでもウェルと目が合うと、涙をこらえることはできなかった。
「私たちは、あなたが処刑されたと……」
「僕も、あのままでは殺されていたと思います」
ウェルがユキネへ手を伸ばす。
その直前だった。
弟の目が、ほんの一瞬だけ止まった。
再会を喜ぶ柔らかな目ではない。ユキネという人間ではなく、その奥にある何かを確かめるような、冷たい視線だった。
ウェル自身も驚いたように瞬きをした。
次の瞬間には、見慣れた弟の顔へ戻っていた。
「ユキネ姉上も、無事でよかった」
ユキネは胸に生じた小さな引っかかりを押し込め、その手を強く握った。
「あなたもです。戻ってきてくれて、本当によかった」
生きている弟を前にして、今の一瞬を疑う理由などなかった。長い逃亡と疲労が、目に表れただけかもしれない。ユキネはそう考え、今は姉と弟を守ることを優先した。
天幕の外には知らせを聞いた者たちが集まり始めていた。シャルンとマウクが入り、少し遅れてチョーカ、ジルバ、シャーウも姿を見せる。
マウクは寝台の上のウェルを見るなり、言葉を失った。
「マウク」
「……はい」
「やっぱり、後から来てくれなかったね」
責める響きはなく、ウェルは弱々しく笑っていた。
マウクは寝台の脇へ膝をつき、差し出された手を両手で包んだ。
「申し訳ありません。今度ばかりは、約束できないと言った自分を殴りたい気分です」
「それなら、元気になってから僕が代わりに殴るよ」
「できれば手加減をお願いします」
ウェルが笑い、マウクも目元を押さえながら笑った。
チョーカは2人のそばまで来ると、ウェルの肩へ手を置いた。
「よく戻ったな。お前までいなくなったら、マウクとイケメーンに飲ませる酒が1つ減るところだった」
「僕は飲める量が少ないから、最初から数に入っていないと思うけど」
「席にいることが大事なんだ」
短いやり取りに、張り詰めていた天幕の空気がほどけていく。前日に聞かされた死を打ち消すには、目の前の声と表情はあまりにもウェル本人のものだった。
やがて治癒師が休ませるよう求めたため、レインたちだけを残して他の者は天幕の外へ出ることになった。
その前に、ジルバがウェルへ尋ねる。
「お疲れのところ申し訳ありません。追手の有無だけ確認したい。どの道を通って谷へ来られましたか?」
「ストログの兵に捕らえられた後、護衛兵たちが僕だけを逃がしてくれました。皆は追手を引きつけるため、その場に残って……」
ウェルの声が震えた。レインが背へ手を添えると、息を整えて続ける。
「僕は旧街道へ入り、できるだけ人のいない道を選びました。途中でクラスト軍が大きく移動した跡を見つけて、残っていた旗印や馬車の轍を追いました。それで、この谷へ辿り着いたんです」
「護衛兵は、誰か戻ったのですか?」
レインが尋ねた。
ウェルは首を横へ振る。
「分かりません。僕を逃がすために道を塞いでくれました。振り返るなと言われて、そのまま走りました」
正式通告には、ウェルと護衛兵全員の処刑が記されていた。
だが、死んだとされた本人が目の前にいる。通告に偽りがあったのなら、護衛兵たちが命を懸けてウェルを逃がしたという話にも矛盾はないように思えた。
ライトスにも、その説明を疑う理由はなかった。それより先に確かめるべきなのは、追手が谷まで迫っていないか、残された護衛兵を救える可能性があるかだった。
ジルバはそれ以上の質問を控えた。
「周囲の捜索はこちらで行います。今はお休みください」
「ありがとうございます」
ライトスは天幕を出る前に振り返った。
レインは弟の手を離さず、ユキネもすぐ隣に座っている。前日まで彼女たちを覆っていた喪失は消え、姉弟の間には再会の喜びだけがあった。
外では、ウェル生還の知らせが谷の各陣へ伝わり始めていた。悼むために掲げられた旗は降ろされ、兵たちの間から安堵の声が広がっていく。
前日、旗の前で黙祷した兵たちは、最初こそ信じられないという顔をした。それでも、入口でウェルを見た者の話が重なり、治癒師から本人だと伝えられると、戸惑いは喜びへ変わった。護衛兵たちの帰還を願う声も上がり、谷の警戒隊には街道と周辺の捜索が命じられた。
シャーウは、入口から続く足跡と周辺の痕跡を確認するため、第一遊撃団の斥候を複数の方向へ出した。追手を見つけても戦わず、数と進路を確かめて戻るよう命じる。ウェルの帰還を喜ぶことと、谷の警戒を緩めないことは別だった。
シャルンは、王城へ急ぎ生還を知らせるべきだとレインへ進言した。
「処刑の正式通告が王城で受理されています。通信だけでは誤報として退けられる可能性があります。通信魔法と、レイン殿下の署名を入れた書状の両方を使うべきです」
レインは弟のそばを離れずに答えた。
「そうしてください。ウェルを保護したこと、容体を見ながら事情を確認していることを父上へ伝えます。書状には私が署名します。護衛と替えの馬も用意させてください」
悲しみが消えたからではない。死んだとされた弟が戻った今、王族としてその事実を確実に届ける責任を選んだのだ。
処刑の正式通告を覆す知らせである以上、途中で失われることは許されない。通信を担う者は術式を整え、伝令は護衛と替えの馬を用意し始めた。
誰も、戻ってきた王子を疑わなかった。
ユキネもまた、あの一瞬の視線を、長い逃亡で疲れているせいだと自分に言い聞かせた。
ただウェルだけは、姉の手の温かさを感じながら、自分がなぜユキネをあのように見たのか分からずにいた。




