第1話 切り離された同行者
クラスト王城の正門前では、ストログ王国へ向かう一行の出立準備が進められていた。
荷を積んだ馬車が並び、護衛兵たちが装備を確かめている。その中央で、ウェルは旅装の襟元を何度も直していた。
「そんなに触っても、襟はそれ以上きれいにならないよ」
マウクが声をかけると、ウェルは手を止めて振り返った。
「分かっているけど、落ち着かないんだ。姉上たちと入れ替わりに、今度は僕がストログへ行くんだと思うと」
「緊張するのは悪いことじゃない。自分が慣れていない場所へ行くと理解している証拠だからね」
「マウクが一緒なのに?」
「僕が一緒でも、君がクラスト王国の王子として向き合わなければならないことは変わらないよ。僕はあくまで相談役だ」
ウェルは襟元から手を離し、素直にうなずいた。
出向の準備には長い時間をかけてきた。マウクはウェルの教育係も兼ねており、ストログの制度や慣習だけでなく、他国で王族として振る舞う際の注意点も教えてきた。
それでも、実際に国境を越えれば、書物で学んだことだけでは判断できない場面もある。だからこそ、マウクが相談役として同行することになっていた。
「向こうには、イケメーンもいるんだよね」
「いるよ。おそらく酒を用意して待っている」
「僕も飲まされるのかな」
「断って構わない。あれは僕が引き受ける」
ウェルがほっとしたように笑った。その直後、王城の中から1人の文官が駆けてきた。急いでいたらしく、2人の前で足を止めると、浅く息を整える。
「マウク殿。国王陛下からの命令です」
差し出された書状を受け取り、マウクは封を確かめた。国王の名による正式な命令書だった。
文面は短い。
マウクのストログ同行を取りやめ、王城に残って内政官としての職務を継続させる。それだけが記されていた。
「同行の中止?」
横から書状を読んだウェルの顔から、先ほどまでの笑みが消えた。
「どういうことだ。マウクは僕の相談役として行くはずだっただろう?」
文官は困惑を隠せないまま頭を下げる。
「私には、命令をお伝えすることしかできません」
マウクはもう一度、書面へ目を落とした。
国王命令である以上、拒むことはできない。しかし、出立直前まで何の相談もなく、理由さえ記さずに同行者だけを外すのは不自然だった。
さらに、文官が携えてきた書類には、ウェル単独での出向へ切り替える手続きまでそろっている。宿泊先、受け入れ手順、国境での引き渡し。どれもマウクが同行しない前提で整えられていた。
今、決まった変更ではない。
少なくとも、これを準備した者にとっては。
書類から顔を上げた時には、ウェルが王城へ向かって歩きだしていた。
「父上に確認してくる」
マウクはその腕をつかんで止めた。
「待って。出立の時刻が迫っている。王子である君が今から予定を崩せば、護衛兵だけでなく、国境で待つ者たちにも影響が出る」
「だが、理由も分からないままマウクだけを残すなんて納得できない」
「僕も納得はしていないよ。だから、こちらで確認する。君は予定どおり出発して」
いつもの穏やかな口調だったが、ウェルはすぐには応じなかった。並んだ馬車と、出発を待つ護衛兵たちを見回す。その全員を待たせていることに気づいたのだろう。悔しさを残したまま、王城へ向けていた足を戻した。
「……本当に、後から来るのか?」
「それはまだ分からない。僕が勝手に約束できることではないからね」
曖昧な慰めで安心させることはできた。だが、それを口にすれば、ウェルは偽りの約束を信じたまま国境を越える。
やがてウェルは小さく息を吐き、うなずいた。
出立を告げる号令が正門前に響いた。
マウクはウェルを馬車まで見送り、乗り込む直前に呼び止める。
「ウェル。1つだけ覚えておいてほしい」
「何?」
「向こうで差し出された書類には、内容を最後まで確認する前に署名しないこと。急ぐよう言われても、相手が信頼できる人に見えても同じだ。分からない箇所が1つでもあれば、その場では署名せず、確認する時間をもらうんだ」
ウェルは不思議そうにマウクを見た。
「今までにも教わったことだろう?」
「教えたね。でも、今日はもう一度言っておきたくなった。君は相手を信じることから始める。それは君の良いところだけれど、署名は信頼だけでしてはいけない」
マウクが冗談を交えずに話していることに気づき、ウェルの表情が引き締まる。
「分かった。必ず確認する。マウクがいなくても、自分で確かめてから決める」
「それならいい。気をつけて」
「マウクも、後から来られるよう父上に話してくれ。イケメーンが酒を用意して待っているんだろう?」
「そうだったね。放っておくと、彼が全部飲んでしまいそうだ」
ようやくウェルが笑った。
馬車が動きだす。マウクはその姿が正門の向こうへ消えるまで見送った。
自室へ戻ると、受け取った命令書と、すでに用意されていた手続き書類を机へ並べた。
不正を示す明確な痕跡はない。必要な決裁はそろい、書式にも不備がなく、変更された日付にも矛盾はなかった。
あまりにも整いすぎている。
偶然や直前の思いつきでは、ここまで痕跡なく準備できない。だが、整っているという事実だけで、関わった者や目的までは決められなかった。
マウクは紙を3枚取り出した。
宛先は、第七騎士団長チョーカ、第一遊撃団長シャーウ、第二遊撃団長ライトス。
書けることは多くない。推測を書けば、受け取った者の判断を誤らせる。今伝えるべきなのは、確かめられた事実だけだった。
マウクは、同行中止が出立直前に告げられたこと、それにもかかわらず手続きが事前に整えられていたこと、今後届く命令や不自然な軍の動きに注意してほしいことだけを書いた。
3通を書き終えると、王城へ定期的に品を納めている、以前から信頼する商人を呼んだ。
「この手紙を、それぞれ本人へ直接渡してほしい。王城の伝令は使わないで」
商人は宛名を確かめ、マウクの顔を見た。
「急ぎですか?」
「できるだけ早く。ただし、無理をして目立たないように。届けたことも、他の人には話さないでほしい」
「承知しました」
3通の手紙が荷の中へ収められるのを見届け、マウクは扉を閉めた。
まだ、やるべきことが残っている。
レインたちはすでにストログを出ている頃だ。通常の伝令では間に合わない。
マウクは机から離れ、意識を集中させた。魔力は高くない。長く会話を続ける余裕はないが、短い言葉を送るだけなら届かせられる。
思い浮かべる相手はシャルンだった。
「シャルン。予定が変わった。僕はウェル様に同行しない。帰路で受ける指示を、理由も確かめずに信じないで。レイン殿下とユキネ殿下を守ってほしい」
通信を終えた直後、廊下から複数の足音が聞こえた。
足音は通り過ぎず、マウクの部屋の前で止まった。
扉が強く開かれ、武装した兵士たちが入ってくる。
「内政官マウク。元帥閣下の命により、反逆の疑いで拘束する」
マウクは兵士たちの人数と配置を一度だけ見回した。抵抗して逃れられる状況ではない。そもそも、武力で彼らを退ける力もなかった。
「容疑の内容を聞いても?」
「詳しい話は牢で行う」
予想していたわけではない。だが、驚くほどのことでもなかった。
ウェルから自分を切り離した者が、王城に残したまま自由に調べさせるとは考えにくい。
両手を拘束されながら、マウクは机へ視線を向けた。手紙はすでに商人へ託した。シャルンへの通信も終えている。
少なくとも、警告は王城の外へ出た。
薄暗い牢へ押し込まれ、背後で重い扉が閉ざされる。
マウクは冷たい石壁へ背を預けた。
陰謀の全容は見えない。誰を信じてよいのかも、まだ判断できない。
それでも、ウェルの出立と自分の投獄が無関係だとは思えなかった。
「さて……僕をここまで急いで閉じ込めた理由は何だろうね」
答える者のいない牢の中で、マウクは静かに思考を巡らせ始めた。




