第18話 谷に集う旗
アドラスの谷へ入ったライトスたちを迎えたのは、道沿いに並べられた水樽と、谷の各所に立つ案内旗だった。
チョーカが送った先行使者を受け、領主ルイセンは限られた時間で受け入れの準備を進めていた。治療場所へ向かう旗、荷駄を置く場所を示す旗、各部隊を分けるための旗が、混乱を防ぐように配置されている。
ただし、集まった兵は約9,500人に及ぶ。全員を領主の屋敷や周辺の村へ収容することはできない。谷へ入れたことで追撃を避けられても、兵を固めたままでは水場も道も塞いでしまう。
ジルバは馬上から谷の入口と両側の斜面を見渡した。
「第五騎士団は谷の入口と東側へ展開する。第七騎士団は西側を固めてくれ。各遊撃団は中央の警戒と周辺偵察を担当する。部隊ごとの指揮は、それぞれの団長が執れ」
「分かった。第七騎士団は西へ移るぞ! 水場を塞ぐな。荷駄は指定された場所へ分散させろ!」
チョーカの命令を受け、第七騎士団が進路を変える。ジルバは全体の配置を示しただけで、各部隊の動かし方までは奪わない。複数の部隊を短時間で収めるには、それぞれの指揮系統を崩さないことが重要だった。
ライトスも第二遊撃団へ振り返った。
「負傷者を先に治療場所へ運べ! 天幕を張れる者は、その後で第三遊撃団を手伝え! ガランは周辺警戒、キュリは弓兵を率いて高所を確認しろ!」
「了解!」
キュリは返事と同時に斜面を見上げた。案内旗の位置だけでなく、弓兵が立てる場所と、そこから死角になる道を順に確かめている。
「地元の方を1人お借りできますか? 見晴らしがよくても、足場が崩れやすければ使えません」
近くにいた家臣が応じると、キュリは身分差を気にして遠慮することなく、弓兵との間へ招き入れた。道を知る者と戦える者を、その場で結びつけていく。
兵たちが動く中、ルイセンが数人の家臣を伴って歩み寄ってきた。
70歳を迎えた老領主だったが、その足取りには元騎士団長らしい力強さが残っている。
レインとユキネが進み出ると、ルイセンは深く頭を下げた。
「レイン殿下、ユキネ殿下。ご無事で何よりでございます。アドラスの谷は、お二人と皆様をお迎えいたします」
「突然これほどの人数で押しかけることになり、申し訳ありません」
レインは谷の奥で水や食料を運ぶ領民へ視線を向けた。自分たちを守るために、彼らの暮らしを壊すことはできない。
「必要な物資と使用量は、部隊ごとに記録させます。領民の分へ手をつける徴発は認めません。不足が出た場合は、まず私へ報告してください。王族として、その判断から逃げるつもりはありません」
穏やかな声だったが、判断を他人へ預ける言葉ではなかった。
ルイセンは静かにうなずく。
「殿下方をお守りすることは、クラストに仕える者として当然の務めです。ただ、領民だけで約9,500人を支え続けることはできません。水と食料は可能な限り用意しましたが、長期の滞在には別の手立てが必要となります」
「承知しています。ここで態勢を整え、必要な手立てを私たち自身で探します」
レインが答える横で、ユキネは谷の入口から斜面へ目を走らせていた。
「ルイセン殿。谷へ入る道は、先ほど通った道だけでしょうか。姉上を守る場所として使う以上、敵が近づける経路はすべて把握しておきたいのです」
「細い道がいくつかございます。後ほど、詳しい者から説明させましょう」
「私も確認します。守られるだけでいるつもりはありません」
チョーカが進み出た。
「ルイセン殿、急な願いを受け入れていただき、ありがとうございます」
「使者から事情を聞いた時は驚いた。だが、お前が3,000もの兵を動かしたのなら、迷っている時間はないと思ってな」
「助かりました。必要な物資はこちらでも集めます。谷の民だけに負担はかけません」
「頼む。こちらも出せるものを惜しむつもりはない」
ルイセンの後ろから、1人の少女が歩み出た。
まだ15歳ほどだが、大勢の兵や王女を前にしても必要以上に引く様子はない。
「娘のルイーナです。谷の地理には、私より詳しいところもあります」
「ルイーナです。治療場所と水場への道は、家臣たちと確認してあります。迷った方を見つけたら、こちらから捕まえますのでご心配なく」
しっかりした説明の最後だけが、妙にあっけらかんとしていた。
ルイーナは一礼すると、すぐに負傷者が運び込まれている方角を見た。挨拶を続けるより、今どこが詰まりかけているかを気にしている。
「団長、治療用の水が足りません!」
「予備の水樽を回せ! 第二遊撃団の分は後でいい。まず負傷者に使え!」
ライトスの命令に、兵が走り出す。
「その道だと荷駄とぶつかります」
ルイーナが迷わず声をかけ、谷の脇へ延びる細道を指した。
「こちらから回れば治療場所の裏へ出ます。水樽も通せます」
「助かる。案内を頼めるか」
「もちろんです。谷の中で迷われたら、私たちの準備不足みたいですから」
ルイーナは家臣とともに水樽の先へ回った。ライトスは自分の天幕より先に治療場所を整えさせ、動ける兵を他隊の設営へ回している。その判断を見た少女の足取りには、わずかに力がこもっていた。
ユキネはルイーナの視線と動きを確かめたが、それ以上は追わなかった。今は姉と谷を守る方が先だ。少し離れた高所では、キュリも案内役と弓兵の配置を決めながら、同じやり取りを見ていた。
キュリは小さく息を吐くと、すぐに斜面へ向き直る。
「そこは2人ずつ。見張るのは谷の外だけじゃありません。下の道が詰まったら、すぐ知らせてください」
それぞれが違うものを優先しながら、谷の受け入れは進んでいった。
*
日が傾く頃、ルイセンの屋敷にレイン、ユキネ、シャルンと各部隊の団長、副団長が集まった。
ライトスも谷の地図を囲む1人として、昼のうちに整えられた配置を確認する。
全体の配置を担うジルバが、地図の各所を指した。
「野営地の設営は予定どおり進んでいる。第五騎士団が谷の入口を守り、第七騎士団が西側を担当する。第一遊撃団は王都方面、第二・第三遊撃団は谷の周辺を警戒する」
「第二遊撃団の負傷者は治療場所へ移し終えました。周辺警戒にも必要な人数を出せます」
ライトスが報告すると、ジルバはうなずいた。
各団長の確認が終わった後、ルイセンが口を開く。
「皆様へお伝えしなければならないことがあります。数日前、旧友のゴハールから通信魔法が届きました」
「ゴハール殿から?」
ジルバが顔を上げる。
「通信は途中で途切れました。声にも余裕がなく、正常な状態だったとは思えません」
ルイセンは、記憶に残る言葉をそのまま告げた。
「『王城の命令を信じるな。マウクが――』。聞き取れたのは、そこまでです」
室内の空気が張り詰める。
シャルンは感情を表に出すより先に、事実の欠けている部分を拾った。
「通信を受けた時刻は確認できますか。その後、ゴハール様から連絡は?」
「数日前の夕刻です。その後の連絡はありません。こちらからの通信にも応答がないのです」
「警告の途中で通信が断たれ、それ以降は応答もない。自分の意思で連絡を止めた可能性より、襲撃または拘束を受けた可能性を優先すべきです」
シャルンは不安だけを口にせず、得られた事実と推測を分けたうえで逃げ道を塞いだ。
チョーカが机へ2枚の報告書を置く。
「その可能性は高い。俺が王都へ残した間者からの情報と、第一遊撃団の偵察結果が一致した」
シャーウは報告書を並べ替え、確定した情報から告げた。
「マウク殿とゴハール殿は、どちらも王城内で拘束されています。ただし、同じ場所ではありません。収監場所の特定はまだです」
「マウクは生きているのか?」
チョーカの問いに、シャーウがうなずいた。
「少なくとも、報告が出された時点では。ゴハール殿も治療を受けた後、別の牢へ移されたようです。情報が古くなる前に、監視を続けさせています」
「治療を受けたということは、負傷しているのですね」
レインの声には心配がにじんだが、それだけで終わらなかった。
「容体と収監場所の確認を優先してください。救出の機会が来た時、動ける準備も同時に進めます」
「容体は未確認です。移送された事実までは複数の経路で一致しています」
センクが必要な情報だけを短く補った。
ライトスは、マウクから届いた手紙を思い出していた。あの警告は、王城内部で起きる事態を見越したものだった。今や、手紙を送ったマウクだけでなく、異変を調べたゴハールまで拘束されている。
ジルバが全員を見渡す。
「王都へ戻れば拘束され、ここに留まれば反乱軍と見なされる。だが、マウク殿とゴハール殿を見捨てることもできん」
「すぐに大人数を動かせば、こちらの所在と意図を王城側へ知らせます」
シャルンは地図から視線を上げた。
「まずは2人の収監場所と王城の警備状況を正確に確認すべきです。救出するにしても、正面から約9,500人を動かす選択肢はありません。谷の守りを失い、2人の命まで危険にさらします」
「第一遊撃団で調査を続けます。王都側の小隊には、接触を避け、収監場所と警備の変化を優先して確認させます」
シャーウの言葉に、ジルバがうなずく。
「頼む。ほかの部隊は谷の守りを固める。第二騎士団が戻ってくる可能性もある」
「第二遊撃団は周辺の経路を洗い直します。退路と迎撃場所を分け、負傷者の近くへ戦闘を持ち込ませません」
ライトスが答えると、ユキネも地図へ手を置いた。
「私も谷の経路を確認します。姉上の守りに穴があれば、部隊へ任せきりにはしません」
各自が役割を確かめる中、チョーカは机上の報告書を見つめていた。
マウクも、ゴハールも生きている。
ならば、まだ救い出せる。
そのための道を見つけることが、次の戦いだった。




