第15話 王城の影
クラスト王城の文書庫で、ゴハールは古い決裁簿を机いっぱいに広げていた。
ウェルがストログへ出立してから、王城では不自然なことが重なっている。同行するはずだったマウクの姿が消え、王女たちを迎えるために動いた軍へは反乱鎮圧の命令が出された。偶然として片づけるには、起きた時期が近すぎた。
68歳。かつて第二騎士団を率い、史上初めて第1から第7まで、すべての騎士団長を歴任した人物である。引退した今も王族や軍部からの信頼は厚く、現役の騎士団長たちにもゴハールの教えを受けた者は多い。
その影響力の強さゆえ、文書庫の役人も彼の調査を無下にはできなかった。だが、運び込まれた帳面を前にしても、ゴハールは肩書きで相手を従わせようとはしない。戦場で敵陣を読む時と同じように、書かれている事実と、あるはずなのに存在しない記録を分けて追っていた。
「ウェル殿下の出立記録はこれで全部か?」
「はい。護衛兵50人と馬車、携行物資、ストログ側へ渡す書状が記録されています」
若い記録係が差し出した書類を、ゴハールは順に確かめた。名簿にある人数と物資の受領数は一致している。馬車の準備にも、王城を出た時刻にも不自然な点はない。
問題は、記されている内容ではなかった。
本来なら、ウェルには相談役としてマウクが同行するはずだった。出立に必要な手続きも、その前提で進められていた。ところが最終的な出立者名簿からは、マウクの名だけが消えている。
「同行者の変更命令を見せろ」
「それが……見つかりません」
「見つからないとは、探していないという意味か。保管されていないという意味か」
記録係は唇を結び、棚に並ぶ決裁簿へ目を向けた。
「保管されていません。ですが、以前は確かにありました。国王陛下の命令として、マウク様を同行から外す書類が収められていたはずです」
「記録を残さず、王子の相談役を外したというのか?」
「いいえ。最初に届いた時は、受領の手続きも行いました」
「ならば、誰が持ち出した?」
記録係は扉の方を確かめてから、声を落とした。
「丞相府から返却を求められました。手続きに不備があったため、差し替えると……」
「クマークか」
ゴハールは別の決裁簿を開いた。王命であっても、発令から保管までには必ず記録が残る。書類そのものを差し替えても、受領した事実や決裁番号まで消えるわけではない。
指で番号を追うと、ウェル出立の前後だけが不自然に飛んでいた。欠番の次には、まったく別件の命令が続いている。差し替えられたなら同じ番号か、取り消しと再発行を示す記載が残るはずだが、それもなかった。
「この番号の書類を最後に確認したのは誰だ」
「私です。返却を求めた使者へ渡す前に、番号と封印を照合しました」
「差し替えの書類は届いていないのだな」
「はい」
書類の不備を正すための回収ではない。命令が存在した痕跡そのものを薄くするために持ち出された可能性がある。
ゴハールは出立者名簿へ視線を戻した。
「マウクは今どこにいる?」
「王城内にはいらっしゃいません。ご自宅にも戻っていないそうです」
「出立記録にはおらず、王城にも家にもいない。本人が勝手に消える理由もないか」
マウクは戦場へ立つ男ではない。しかし、書類の不自然さを見落とす男でもなかった。ウェルの出立直前に同行を外され、そのまま消息を絶ったのなら、偶然では済まない。
王命を装った書類が使われたのか。正規の王命が、別の目的に利用されたのか。今ある記録だけでは、そこまで断定できない。
だからこそ、残っている事実を失うわけにはいかなかった。
「この欠番と持ち出し記録を書き写せ。誰が、いつ、どの理由で持ち出したかもだ。原本には触れるな」
「ですが、丞相府に知られれば……」
「知られた時の責任はわしが取る。お前が推測を書く必要はない。見たものだけを、元の記録どおりに写せ。今ある記録まで消されれば、何も確かめられなくなる」
記録係は迷った末、うなずいた。新しい紙を取り出し、決裁簿の番号から慎重に筆を進める。
ゴハールはその手元を見届けると、ウェルの出立記録を元の順番へ戻した。
証拠を持ち出せば、調べていると知らせることになる。今はまだ、相手に何を見つけたか悟らせるべきではない。
次に確かめるべきは、マウクを最後に見た者と、王城内で拘束を行える立場の者だった。
*
日が落ちてから、ゴハールは王城を出た。
王都の軍関係者へマウクの行方を尋ねるためだった。騎士団長を離れて久しいとはいえ、直接話を聞ける相手は残っている。誰か1人の証言を信じるのではなく、別々の経路から集めた情報を照合するつもりだった。
だが、通用門を離れて間もなく、背後から複数の足音が近づいた。
歩幅は揃っていない。それでも距離だけは一定に縮まってくる。偶然同じ道を進んでいる者たちではない。
「随分と急いでおるな」
ゴハールは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
顔を布で隠した3人の男が、すでに剣を抜いていた。道を尋ねるつもりも、脅して追い返すつもりもない構えだった。
「老人1人を相手に、名も名乗れんか」
先頭の男が無言で踏み込んだ。
横薙ぎの剣が首元を狙う。ゴハールは半歩だけ身を引いて刃を外し、振り切った男の手首をつかんだ。そのまま肘の向きへ捻り上げる。指から離れた剣を蹴り飛ばし、崩れた身体を後続の男へぶつけた。
2人が重なって体勢を崩す。
残る1人は背後へ回ろうとしていた。ゴハールは腰の短剣を抜き、その足元へ投げる。刃が石畳へ突き刺さり、踏み込もうとした男の動きが一瞬止まった。
その隙に懐へ入り、肘を胸へ叩き込む。息を失った男が膝をついた。
最初に手首を取られた男は倒れたまま起き上がれず、もう1人も仲間の身体に進路を塞がれている。
「この程度で、わしを消せると思ったか」
ゴハールは3人の位置を見ながら一歩進んだ。
その瞬間、路地の奥で魔法の光が揺れた。
剣を持った3人は、ゴハールの目と身体を近くへ引きつけるための囮だった。
光に気づいた時には、すでに魔法が放たれている。身をひねったものの避けきれず、熱と衝撃が脇腹を撃ち抜いた。
身体が石壁へ叩きつけられる。肺から空気が押し出され、折れた肋骨が呼吸のたびに内側を刺した。焼けた衣服の臭いが鼻を突く。
追撃に備えようとしても、片脚へ力が入らない。倒した男たちが立ち上がり、路地の奥にいた術者も距離を詰めてくる。
遠くから城兵の声が聞こえた。
「何者だ! そこで何をしている!」
襲撃者たちはゴハールへとどめを刺すより、姿を見られないことを選んだ。倒れた仲間を両側から引きずり、路地の闇へ逃げ込んでいく。
追わせる声を出そうとしたが、息が続かなかった。
ゴハールは壁へ背を預けたまま、震える手を胸元へ当てる。誰が自分を狙ったかは証明できない。だが、文書庫で調べた直後に襲われた事実だけで、記録の欠落が偶然ではないと分かる。
このまま意識を失えば、調べた内容も消される。
残った魔力を絞り、旧友のルイセンへ通信をつないだ。
『ルイセン……聞こえるか。王城の命令を……信じるな。マウクが――』
傷の痛みで集中が途切れ、通信は最後まで届かなかった。
駆け寄る城兵の姿が滲み、ゴハールの意識は闇へ沈んだ。
*
ゴハールは城兵によって王城の治療室へ運び込まれた。
脇腹には深い火傷があり、肋骨も折れている。治癒師は呼吸と脈を確かめると、すぐに本格的な治療の準備を始めた。
そこへ、クマークの部下が複数の兵を伴って現れた。
「丞相閣下からの命令だ。命に関わる処置だけを行え。意識が戻り次第、旧治療棟地下の牢へ移す」
治癒師は手を止め、担架の上のゴハールと命令を伝えた男を見比べる。
「この傷で牢へ入れるのですか? 出血を止めるだけでは、容体が悪化します」
「命令だ。生かすために必要な処置は認められている」
「治すための処置ではないのですね」
「余計な判断はするな」
丞相の部下は、それ以上の説明を拒んだ。治癒師は反論をのみ込み、出血と火傷へ最低限の処置を施す。折れた肋骨を完全に戻すことも、傷へ十分な治癒魔法を重ねることも許されなかった。
やがてゴハールは担架へ移された。意識は戻らず、浅い呼吸だけが続いている。
兵たちは人目の多い正面の廊下を避け、王城北西部にある旧治療棟へ向かった。その地下へ通じる扉が開かれ、担架は暗い階段の先へ運ばれていく。
その姿を、文書庫の記録係が廊下の陰から見ていた。
写しを作り始めてから間もなく、ゴハールが襲われたという知らせが文書庫へ届いた。確認のため治療室へ向かった記録係が見たのは、傷を負った元騎士団長と、その周囲を固める丞相府の兵だった。
マウクの名が記録から消えた。
同行中止の命令書も、差し替えを理由に持ち出された。
その行方を調べたゴハールまで、負傷したまま地下へ連れていかれた。
ここで声を上げれば、自分も拘束され、書き写した記録の存在まで知られる。記録係は足を踏み出さず、閉じていく地下への扉を見つめた。
今できるのは、見た事実を失わないことだけだった。
記録係は声を上げず、ゴハールが運ばれた場所と、連れていった者たちの姿を胸へ刻んだ。
ゴハールが収容されたのは、マウクとは離れた旧治療棟地下の牢だった。




