第13話 奪われた署名
ウェルを乗せた馬車がストログ王国の国境施設へ着いた時、出迎えの姿はなかった。
新街道を進んできたクラストの護衛兵50人が、周囲の異様な静けさに気づいて足を止める。事前の取り決めでは、ここで入国手続きを済ませ、ストログ側の案内を受けて王城へ向かうはずだった。
門前に案内役はおらず、入国を確認する文官の姿もない。壁上から見下ろす兵だけが、無言のまま一行の動きを追っていた。
護衛隊長が片手を上げると、50人の歩みがそろって止まった。馬車の中にいるウェルにも、馬具の音まで消えた静けさが伝わってくる。
やがて閉ざされていた門が開いた。
奥から現れたのは、歓迎のための儀仗兵ではない。槍と盾を構えたストログ兵が門の内側を塞ぎ、弓兵が壁上へ並ぶ。魔法兵もすでに杖を構え、いつでも術を放てる姿勢を取っていた。
護衛隊長が馬を進める。
「クラスト王国王子ウェル殿下の一行だ。事前の取り決めどおり、ストログ王城へ向かう。入国の手続きを願いたい」
「全員、武器を地面へ置け」
返ってきたのは、入国を認める言葉ではなかった。
「どういう意味だ。我々は正式な使節だ。護衛の人数も装備も、事前に通知してある」
「ウェル王子ならびに同行者全員へ、国家転覆への関与を調べるための拘束命令が出ている。抵抗すれば、反逆の意思ありと見なす」
護衛兵たちの間に緊張が走った。先頭の兵は剣の柄へ手を近づけたが、抜いてはいない。背後へ下がろうにも、街道の両側は壁と柵で狭められ、馬車を反転させる余地はなかった。
ウェルは馬車の扉を自ら開けた。護衛隊長が止めようと振り返ったが、矢を向けられた兵たちの前で隠れているわけにはいかなかった。
地面へ降りても、声は荒らげなかった。
「僕たちは正式な使節として来た。ナーカマ陛下にも、イケメーン団長にも訪問は伝わっている。姉上たちと交代でストログへ滞在することも、両国で決められていたはずだ。まずはお二人へ確認してほしい」
「その必要はない。命令はすでに確定している」
「ならば、命令書を見せてくれ。僕たちには拘束される理由がない。国家転覆というなら、何を根拠にしているのか説明してほしい」
ストログ兵は答えず、槍の穂先を一斉に護衛兵へ向けた。壁上では弓弦を引く音が重なる。
ここで戦えば、護衛兵はウェルを守りながら国境施設を突破しなければならない。周囲を囲まれた50人では、門を抜ける前に大きな犠牲が出る。ウェル自身が捕らえられれば、戦う理由すら失われる。
護衛隊長がウェルを見る。その目は命令を待ちながらも、戦えばどうなるかを理解していた。
ウェルは悔しさをのみ込み、静かにうなずいた。
「武器を置いてくれ。抵抗してはいけない。僕たちは何も企てていない。事情を説明し、正式な確認が行われれば誤解は解ける」
「しかし、殿下――」
「僕を守るために、ここで命を捨てることは許さない。全員、命令に従ってくれ」
護衛隊長は一瞬だけ歯を食いしばり、兵たちへ武器を置くよう合図した。
剣や槍が、次々と地面へ置かれる。最後の1人が手を離した直後、ストログ兵が一斉に距離を詰めた。
ウェルと護衛兵たちは、その場で引き離された。
*
ウェルが連れていかれたのは、王城ではなかった。
国境施設から幌を閉じた馬車で移送され、着いた先でも窓のない部屋へ入れられた。護衛兵がどこへ連れていかれたのか尋ねても答えはない。ナーカマやイケメーンへの連絡を求めても、扉の外から返事が来ることはなかった。
明かりは机の上に置かれた小さな灯りだけだった。外の様子は見えず、どれほど待たされたのかも分からない。
ウェルは何度も、国境での判断を思い返した。武器を置かせたことが正しかったのか。だが、戦えば護衛兵の多くがその場で倒れていた。正式な手続きを求める余地が残る限り、抵抗しない方が全員を守れると考えた。
その前提が、最初から通じない相手だったのではないか。
ようやく扉が開いた時、入ってきた男は名を告げず、数枚の書類を机へ並べた。護衛兵の安否を尋ねても答えず、一方的に読み上げる。
「クラスト王子ウェル。ストログ国内の協力者と結び、王権を転覆させようとした容疑がかけられている」
「そんな計画は知らない。僕は両国の交流のために来たんだ。国内の協力者というのは誰だ。僕と会った記録があるのか」
「ここには、貴殿の署名がある」
差し出された書類を見て、ウェルは息を止めた。
末尾にある署名は、確かに自分の筆跡に見える。文字の形だけではない。筆を止める位置まで、自分が書いたものと見分けがつかなかった。
だが、その上に記された文章には見覚えがない。ストログ国内で兵を集め、王城の一部を制圧する計画が、自分の指示として書かれている。正式な交流のための訪問とは、何一つ結びつかない内容だった。
ウェルは驚きを押さえ、最初から最後まで目を通した。署名だけを見て反論しても、内容を確認していないと言われる。マウクから繰り返し教えられたとおり、まず書かれていることを把握しなければならない。
「これは僕が確認した書類ではない」
「署名を否定するのか」
「筆跡が僕のものに見えることは認める。でも、僕はこの文章を読んでいない。こんな指示を出したことも、この書類へ署名したこともない」
出発前、馬車へ乗る直前にマウクから言われた言葉がよみがえる。
内容を最後まで確認する前に署名してはいけない。急かされても、相手が信頼できる人物に見えても同じだ。
ウェルは旅の途中も、その忠告を守っていた。差し出された書類はすべて読み、不明な箇所があれば護衛隊長にも確認している。署名した書類の内容を思い返しても、このような文面は一度もなかった。
「僕が道中で確認した書類は、護衛隊長も見ている。彼から話を聞いてほしい。それから、マウクを呼んでくれれば分かる。彼は僕の相談役で、出発前の手続きも確認していた」
「入国者の記録に、その名はない」
「出立直前に同行を外されたんだ。理由は僕にも知らされなかった。だからこそ、クラスト側へ確認してほしい。マウクが調べれば、僕がこの書類を作っていないと証明できる」
男は返事をしなかった。反論を書き留めることも、護衛隊長を呼ぶこともない。最初から答えを求めていないのだと、ウェルにも分かった。
男が次に置いた書類には、ウェルと護衛兵全員を国家転覆罪により処罰すると記されていた。
「待ってくれ。護衛兵たちは命令に従って僕を守っていただけだ。誰もそんな計画には関わっていない。国境でも、僕の命令で武器を置いた」
「武装した兵を率いて入国した事実は変わらない」
「正式に認められた護衛だ! 人数も装備も事前に伝えてある! ナーカマ陛下へ確認すれば、すぐに分かる!」
自分への嫌疑ではなく、護衛兵まで罪人として処罰されると知り、ウェルは初めて声を荒らげた。
「せめて護衛兵を僕とは別に調べてくれ。責任を問うなら、王子として一行を率いた僕だけにすべきだ」
しかし、男は書類を集めて立ち上がった。
「審理は終了した」
「まだ何も調べていないじゃないか! 僕たちの話も、クラスト側への確認も終わっていない!」
扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
机には書類も残されていない。偽りの計画をもう一度確かめることも、署名を調べることもできなかった。
ウェルの訴えに答える者はいなかった。
*
翌朝、ウェルは刑場へ連れ出された。
石壁に囲まれた狭い場所には、冷たい朝の空気と、消しきれない血の臭いが残っていた。地面にはクラストの護衛兵たちが残した血の跡があり、壁際へ続いている。
誰の姿もない。
名前を呼んでも、返事はなかった。ウェルより先に、50人全員の刑が執行されたのだ。
「僕が来なければ、みんなは死なずに済んだのか……」
国境で武器を置くよう命じた時、事情を説明すれば助かると信じていた。兵たちも、王子であるウェルの判断を信じて従った。その結果が、誰の訴えも届かないまま残された血痕だった。
膝が震えた。
それでも、両脇の兵に支えられることは拒んだ。護衛兵たちを救えなかった自分が、最後だけ他人に運ばれることはできなかった。
自分の足で、一歩ずつ刑台まで進む。
レインとユキネは、無事にクラストへ着いただろうか。二人と入れ替わりにストログへ来るはずだった。今頃は王城で、旅の疲れを休めているのだろうか。
マウクは、出立直前の変更と、自分が巻き込まれた異変に気づいているだろうか。彼の忠告を守っても、署名は奪われた。伝えることができれば、どこから偽りが入り込んだのかを見つけてくれるかもしれない。
そして、ストログで待っていると言ったイケメーンの酒を、飲むことはできなかった。
「姉上たちに、知らせてくれ。僕が何を訴えたのかも、護衛兵たちが最後まで命令に従ったことも」
返事はない。
願いが聞き届けられないことは、もう分かっていた。それでも、何も残さずに終わることだけは受け入れられなかった。
ウェルは刑台の前で目を閉じた。
「僕は、クラストを裏切っていない。護衛兵たちも、誰一人として反逆者ではない」
振り下ろされた刃が、その言葉と命を断ち切った。
クラスト王子ウェルは、誰にも真相を伝えられないまま、ストログの地で確実に死亡した。




