第七十七回
【熹平七年(178年)・晩春】
そこには、武具を磨く油の重苦しい匂いと、辺境の荒野が運ぶ乾いた泥の気配が澱んでいた。
夜明け前の薄暗い光が、隙間から微かに差し込む寝台の上。横たわる董卓(仲穎)の岩山のごとき巨軀の傍らには、一人の女傑が静かに寄り添っていた。
彼女の浅黒い肌は、磨き抜かれた銅のように滑らかな光沢を放ち、夜の余韻を留めた引き締まった腹筋には、朝露のような汗が微かに滲んでいる。その頬には、部族の誇りを示す鋭い刺青が刻まれ、暗がりの中でも独特の威圧感を放っていた。
彼女こそは、撫軍房を統べる羌族出身の前線における長である。
豹を思わせる均整の取れたしなやかな肢体は、主君の腕の中でも弛緩することなく、むしろ静謐な爆発力を秘めていた。
羌族の隊長ルカの下で峻烈なる練兵を耐え抜いた彼女にとって、この寝床もまた一つの戦場に他ならない。単なる慰み者ではなく、主母・王綏の冷徹な意思を体現する「牙」として、彼女は董卓の体温を感じながらも、その鋭い感覚を幕舎の外の微かな足音へと研ぎ澄ませていた。
その時、外の見張りの兵たちが「お待ちくだされ、長(仲穎)は未だ……!」と狼狽して制止する声を力強く踏み破り、勢いよく幕が跳ね上げられた。
「お父様! 華が来ました!!」
烈烈たる叫びとともに突入してきたのは、14歳となった愛娘・華児であった。
戦場ではいかなる奇襲にも眉一つ動かさぬ董卓であったが、その一言に驚愕して大きく目を見開き、布団を引っ掴んで自らの無骨な肉体と女子兵士を遮ろうと大わらわに動いた。寝台から跳ね起きた女子兵士は、悲鳴一つ上げず、鋭い眼光を走らせて拳に力を込めた。侵入した者が牙を持つ敵か味方か、その鋭い視線で冷徹に測る兵士の習性が一瞬にしてその顔裏に宿ったのだ。
だが、華児は一瞬、眼前に広がる父親の情事の光景に気まずそうに目元をたじろがせ、小さく足音を震わせたものの、すかさず呆れたような笑みを唇に浮かべて言葉を紡いだ。
「お父様……。まあ、仕方ないか。戦場で張り詰めたままでいられるより、少し安心したわ」
年頃の女子とは思えぬその落ち着いた物言いに、女子兵士はこれが長の愛娘であることを察し、険しい目元を緩めて静かに臨戦の気配を解いた。自然に衣服をかき集め、音もなく隅の暗がりで身支度を整え始める。
布団を抱え込んだまま、董卓は顎髭を震わせて呆然と娘を見つめた。目の前に立つ、見違えるほどに逞しく、かつ気風の良く成長した愛娘の凛とした眼差しを前に、すぐには言葉が出てこない。
「……華児、なのか?」
信じられぬというように、大きく見開かれた瞳を向け、本気で動揺した父親の掠れた声が、晩春の幕舎にぽつりと響き渡った。
対する華児は、動じることなくすっと背筋を伸ばし、懐から一通の竹簡を両手でまっすぐに差し出した。
「お久しぶりでございます、お父様。こちらはをお母様(王綏)からの直筆の書簡にございます」
「綏からの……?」
董卓は未だ混乱のなかにあったが、娘が目の前にただ一人で立っているという事実に、急激に血の気が引くのを感じた。その太い眉が、恐怖と怒りで烈しく跳ね上がる。
「お前、何を考えておるのだ! このような戦火の漂う最前線へ、まさか臨洮から、たった一人でここまで駆けてきたというのか! 綏は一体何をやっておる、なぜ止めなんだ! 途中で異民族や野盗に遭ったらどうするつもりだったのだ、危ないだろうが!!」
「お父様、まずはこれを読んで!!」
華児は父親の烈火のごとき怒声を強烈に遮り、王綏からあらかじめ言いつけられていた通り、手にした竹簡を董卓の目の前へとずいっと突き出した。
その恐れを知らぬ娘の勢いに圧され、憤怒の形相で髭を震わせながらも、董卓は手荒に竹簡の紐を解き、そこに並ぶ正妻・王綏の理路整然とした墨跡へと視線を落とした。
『――拝啓、仲穎殿。并州の覇権総取り、見事な一冬の籠城にございました。さて、そちらへ到着したであろう長女・華児の意志は、ルカの調練を耐え抜いた本物であると、この私が直々に見定めて使者として遣わしたものです。傍に控える李傕、郭汜という男どもは、かつて我が邸へ引き渡され、この私が董家の忠実な牙として完璧に飼い慣らした凄腕の武人であり、見知らぬ無頼などではございません。さらに万一の備えとして、ルカの元で牙を研いだ信頼置ける女子私兵の盾を数名、華児の護衛として添えました。そして何より、これなる不滅の駿馬を、今まさに巨頭となったあなたの元へ直送することこそが、董家の次なる大乱への備えにおいて最も合理的な一手であると確信しております。父親面をして理不尽に怒鳴り散らし、我が選りすぐりの新戦力たちの忠誠を削ぐような不調法は、決してなさぬよう、くれぐれもお忘れなきよう。 王綏』
「…………」
読み進めるうちに、董卓の大きな顔がみるみるうちに困惑と驚愕で強張っていった。
たった一人で無茶をしてきたと思い込み、王綏の不手際を疑っていた直前までの大騒ぎが、この手紙一枚ですべて完璧にへし折られた。外には妻が完璧に飼い慣らした新たなる直属の部下(李傕・郭汜)や女子私兵が、娘の完璧な盾として控えており、さらにガルの闘志を継ぐ最高傑作の駿馬まで連れてきているという。武将としても一族の長としても、王綏の冷徹な正しさと底知れぬ手腕の前に、董卓は完全にぐうの音も出なくなった。
「……なるほど、お前の勝ちだ。う、む。綏の差配に狂いはないな。李傕に郭汜か……我が軍の新たな牙を、まさかこのような形で届けてもらうとは」
気まずそうに太い指先で顎髭をガシガシと掻き、董卓は完全に観念した佇まいで重い腰を上げた。前線の漆黒の鎧を無骨な手際で纏っていく。その姿を、華児は少し誇らしげな笑みを唇に浮かべて見守っていた。
「分かった、急かすな。……おい、また声をかける。お前はもう下がれ」
すでに身支度を終え、部屋の隅で静かに控えていた女子兵士へ、董卓が顎をしゃくって声をかけると、彼女は実直な一礼を返し、音もなく幕舎の奥へと退いていった。
衣服をきちんと調えた董卓は、愛娘の小さな歩調に合わせ、朝の陽光が差し込み始めた砦の回廊をゆっくりと歩み出した。
数年ぶりに間近で見る娘の横顔は驚くほど王綏の気高さを受け継いでいたが、華児はふっと楽しげに目元を細めると、歩きながら事もなげに語りかけた。
「さっきの野盗の話だけど、私と赤兎で蹴散らしたわ。李傕たちが出るまでもなかったわよ」
「……お前が、蹴散らした、だと?」
董卓は思わず歩みを止め、呆気にとられて大きく目を見開いた。絶句する父親を置いてきぼりにするように、華児はさらに嬉しそうに目元を弾ませて言葉を続けた。
「それよりお父様、臨洮の皆の近況、知りたくない?」
「……うむ。書簡には大まかなことしか書かれておらぬからな。弦や承は、元気にしているか」
未だ衝撃から冷めやらぬまま、董卓が少し引きつった髭の奥から問いかけると、華児は楽しそうに声を弾ませた。
「弦は相変わらずよ。侍女頭の木蓮の隣に座って、亡きリア小母様の形見の帳簿を、冷徹な目で音を立てて弾いているわ。年下のくせにすっかり大人びて、私が旅立つ前夜も、おませな顔で『道中の路銀の計算は合っているか』なんて心配してきたの。でもね、最後にこっそり、お守り代わりに交易の古銭を私に握らせてくれたのよ」
「……そうか。弦の奴め、リアの聡明さをしっかりと引き継いでおるな」
董卓の口元に、ふっと深い愛おしさが滲んだ。その脳裏には、かつての夜襲で失った最愛の側室リアの美しい面影が、健気に帳簿を叩く息子の姿と重なり、目尻に温かい皺を刻ませた。
「じゃあ、承は?」
「承は本当に愚直。毎日泥まみれになって、お父様の若き日に負けじと、木剣をこれでもかってくらい振り回しているわ。私の出発の時も、前線に行けるのが羨ましくて、ずうっと唇を尖らせて弦に八つ当たりしていたの。弦は弦で『見苦しいぞ、承』って冷たくあしらうものだから、本当に可笑しくて」
「ははは! あやつらめ、相変わらず小競り合いをしておるか。承の泥まみれの悪ガキぶりも目に浮かぶようだな」
愛しい我が子たちの生々しい息遣いを聞くうちに、董卓の胸のうちは臨洮の温もりで満たされ、思わず豪快な微笑みがその大きな顔いっぱいに広がった。
「皆、大きくなったな……。お前も、見違えるほど立派な使者になった」
董卓は歩みを止めると、少し照れくさそうに、しかし溢れんばかりの愛おしさを込めて、その太く大きな手で華児の頭をガシガシと力任せに撫で回した。
「もう、お父様! せっかくお母様が結んでくれた髪が乱れてしまうわ!」
華児は大きく目を丸くし、ぷっと頬を膨らませて抗議の声を上げたが、その足取りには、父の大きな手の温もりを噛み締めるような、確かな喜びが滲んでいた。
温かい笑い声が晩春の回廊に響くのも、そこまでであった。
二人が一歩、一歩と砦の最も奥深き、厳重に閉ざされた特別な係留所へと近づくにつれ、親子の和やかな空気は、肌を刺すような一変した緊迫感へと塗り替えられていった。
周囲の厩舎からは、恐怖のあまり並の軍馬たちが一斉に狂ったようにいななき、床板を激しく踏み鳴らす絶望的な地響きが伝わってくる。
「――あそこよ、お父様」
華児の目元から少女の笑みが消え、董家の長女としての冷徹な眼差しがその顔裏に宿った。
その視線の先、鉄の格子と頑強な鎖が烈しく軋む音が、薄暗い係留所の奥から響き渡っていた。華児の手綱が離れている間、怪力無双の郭汜や李傕の手に負えるはずもなく、今は太き鉄鎖によってかろうじて繋ぎ止められ、激しく暴れ狂っているのだ。
並大抵の武人では近づくことすら叶わぬ、圧倒的な捕食者の覇気が音もなく這い出し、董卓の武人としての血を烈しく沸き立たせようとしていた。
厩舎の前では、猛将・李傕と郭汜が、その獰猛な覇気に圧されて冷や汗を流し、直立不動で立ち尽くしていた。
「もう、お留守番の間は暴れないでって約束したでしょう!」
華児が事もなげに檻の中へ入り、赤兎の鼻面に指先で触れると、怪物は一瞬で「すん……」と静まり返った。その圧倒的な落差に、李傕と郭汜は絶句した。
「――がははは! がははははは!」
董卓は腹の底から豪快に爆笑した。王綏の送り出した最高傑作の凄まじさと、それを御す娘の器量に、武人としての魂が撃ち抜かれたのだ。
「見事だ華児! そして綏め、やはり貴様の差配には一片の狂いもないな!」
華児から手綱を受け取った瞬間、董卓の全身にガルの不屈の闘志が伝わり、人馬一体の覇気が満ちた。その圧倒的な器を目の当たりにした李傕と郭汜は、深く静かに頭を下げ、無言の臣従を誓った。
董家の新たなる牙が揃い、大乱の幕が今、静かに上がり始めていた




