第七十八回
【熹平七年(百七十八年)・晩春】
并州の五原郡に吹き荒れる砂塵のただ中、紅蓮の嵐が大地を灼いていた。
董卓の剛腕に引かれた太く硬い革の手綱を通じて、十年の春秋を経て骨肉を凝縮させた二代目の駿馬「赤兎」の、尋常ならざる生気が突き抜けてくる。それは地鳴りのような細かな震えとなって董卓の五体に伝わり、かつて数々の死線を共にした戦友ガルの、どれほど傷つこうとも決して歩みを止めぬ不屈の闘志と狂おしく共鳴していた。
人馬一体となった絶対的な覇気をまとい、丸太の柵に囲まれた広大な軍陣を蹂趙するその巨躯の重みは、見る者すべてを戦慄させるに十分であった。
ひとしきり荒野を駆け、地を穿つような勢いで引き返してきた董卓は、手綱を引き絞って猛馬を軍陣のただ中に留めた。その巨躯から放たれる圧倒的な熱気と覇気に、誰もが足元を震わせる。
その傍らには、主母・王綏によって送り出され、先刻その佇まいで臣従を誓ったばかりの董家の新たなる牙――李傕と郭汜が、一歩も退くことなく控えていた。
「李傕、郭汜! 貴様たちの力、この并州の地で存分に奮ってみせよ!」
董卓の太い声が響くと同時に、二人は即座にその強靭な身体を動かした。下された命は、既存の并州兵、あるいは華児の身辺を厳重に守るために同行してきた、撫軍房の女性たちをも交えた実戦さながらの過酷な練兵である。
練兵場は、またたく間に鉄の匂いと泥煙に包まれた。李傕は狼の如き冷徹さで集団の連動を寸分の狂いもなく統率し、個の武勇に頼らぬ組織の暴力を練り上げていく。一方で郭汜は、己の背丈ほどもある大槌を狂暴に振り回し、防衛の陣形を敷く兵たちを力任せに吹き飛ばして防衛線を粉砕していく。王綏の手によって徹底的に鍛え上げられた撫軍房の女性たちもまた、その強靭な足取りで陣形の一翼を担い、前線の兵たちに一歩も引かぬ見事な戦いぶりを見せていた。
二人が競い合うようにして軍の底上げを図る中、長女・華児は厩舎の傍らに静かに立ち尽くしていた。手入れのための道具をその手に携えながらも、その佇まいには、母・王綏から授かった「戦力を見極める」ための重みが、確実に染み込み始めていた。
そこへ、軍陣の入り口を警備していた兵が、慌てた足取りで董卓の元へと駆け込んできた。
「申し上げます! 砦の門前に、役所の紹介状を携えた大男が一人、お目通りを求めて参っております!」
案内されて現れたのは、身の丈八尺を超える屈強な武人、華雄(25歳)であった。その背中には、一切の迷いのない強固な芯が通っている。華雄は董卓の前に至ると、無言で深く頭を下げ、かつて臨洮の役所で董卓の同僚であった馬元義からの紹介状を差し出した。
「お前が、元義殿の……」
董卓が紹介状を受け取ろうとしたその瞬間、物物しい砂塵を巻き上げて緊急の伝令が飛び込んできた。并州の国境付近にて、大規模な野盗と異民族の連合による略奪が発生したという。
「……ちょうどいい。元義殿の手紙を読むのは後だ。華雄、李傕、郭汜! 貴様たちの初陣だ。俺にその牙の鋭さを見せてみよ!」
董卓の咆哮とともに、新たな牙たちは地を蹴った。
戦場に再び紅蓮の嵐が吹く。董卓が駆る赤兎は、敵の矢雨を物ともせず、一瞬で略奪集団の本陣へと肉薄。敵の防えを文字通り圧殺し、戦場を赤く染め上げていく。
それに補足されぬ速さで、三将の競演が始まった。李傕は冷徹な集団戦術で敵の退路を削り、郭汜は本能のままに大槌を振り回して防衛線を粉砕する。国境の乾いた風を裂いて躍り出た新参の華雄は、身の丈を超える大刀を狂暴に一閃させ、敵の頭目を馬上から一撃で叩き斬ってみせた。
互いを強烈に意識し、己の存在を主君に知らしめようとする三人の凄まじい武功により、略奪集団は瞬く間に瓦解し、董家の新たな牙としての初戦は、圧倒的な血煙とともに完全なる勝利で飾られたのである。
◇
前線たる并州から遥か後方、長閑ながらも緊張感の漂う臨洮の董卓邸。その奥まった一室に、洛陽の洗練された香墨で綴られた絹布の書簡が届けられた。
都の動向を監視する董旻からの定期報告便であり、遠征中の夫に代わって邸の留守を預かる主母・王綏の手によって静かに開封された。
『義姉上、洛陽の状況は日に日に混迷を極めてございます。天子による官位の切り売りが本格化し、売官の布告が天下に下されてより、朝廷の威信は地に落ちました。金さえ積めば、いかなる愚者であっても三公九卿の座を買い取れる有様にございます。これまで朝廷を支えてきた名門の文官たちは皆、絶望を深めて職を辞し、宮廷の瓦解はもはや誰の目にも明らかな状況にございます』
王綏は、その丁寧な文字の連なりを指先で静かに追いながら、次なる一事に触れた部分で手を止めた。
『また、かねてより兄上が気に留めておられた、かつて臨洮の役所で同僚であられた馬元義殿のことにございます。聞き及ぶところによれば、元義殿はついに官職を辞し、完全に野に下られたとのこと。そればかりか、各地で急速に勢力を広げつつある怪しげな徒党の巨頭として、密かに人を集めておられるとの噂が、都の闇組織からも伝わってございます。兄上や義姉上におかれましては、どうか不慮の事態に備え、御身を厳重に守られますよう、伏してお願い申し上げます』
王綏は書簡を折り畳むと、すぐさまその内容を精査した書状を認め、并州の前線へと走る早馬へと託した。
◇
――数日の後、その知らせは并州の五原郡、董卓の幕舎へと至る。
戦勝の歓声が遠く響く軍陣の夜、主帥の幕舎の中で、王綏からの添え状とともに董旻の書簡を読み終えた董卓は、低く重い息を吐き出した。かつて宮廷の腐敗を共に憤り、漢朝の行く末を憂いた友が、ついに国を壊す闇の道へ足を踏みインした。その事実が、董卓の背中に重い寂寥の影を落とす。
幕舎の片隅では、長女・華児が音を立てぬよう静かに立ち働き、戦を終えた父のために温かい茶を器へと注いでいた。その小さな手足は澱みなく、まだ幼さの残る佇まいでありながらも、軍師たちが紡ぎ出す冷徹な言葉の数々を、その身に吸い込むようにしてじっと聞き入っている。
「天子が自ら国の命脈を切り売りし、民は野に下って牙を研ぐ。もはや中央の権威など、張り子の虎に過ぎませぬな」
幕舎の影から、静かに声を掛けたのは李儒であった。その立ち姿には、冷徹なまでの時代の見極めが宿っている。
さらに、卓を挟んで控えていた賈詡が、音もなく一歩前へと進み出た。その足取りには一切の迷いがなく、衣服の擦れる音さえも凍りつくかのように静かであった。
「朝廷が自らその権威を削ぎ落とすということは、遠からず、この天の下に巨大な権力の空白が生じるということでございます」
賈詡の声音には、いかなる感情の揺らぎもなかった。ただひたすらに、現場の合理の極みたる言葉を紡いでいく。
「名門名士たちが朝廷を切り捨て、野心ある者が各地で力を蓄える中、真に実力を持つ者だけが、その空白をすべて総取りする資格を持ちます。主公、今はただ、并州の兵を無傷のまま養い、不敵なる精鋭へと鍛え上げること。そして、来たるべき崩壊の瞬間に備えて至高の牙を研ぎ澄ますことこそが、最上の策にございます」
軍師たちの冷徹な進言が、幕舎の空気をさらに重く研ぎ澄ましていく。
董卓は、届けられた丁寧な書簡をじっと見つめたまま、微動だにせず佇んでいた。
◇
前線の血煙や都の退腐から遠く離れた臨洮の董卓邸には、晩春の穏やかな陽光が注いでいた。
だが、その平穏な佇まいの奥にあって、主母·王綏の動向には寸分の弛みもなかった。彼女は邸の奥まった一室で、并州の最前線へと送り出すべき兵糧の調達状況や、各地の職人から買い付けた頑強な鉄器の目録に、静かに目を通していた。
王綏が筆を置き、傍らに控える古い従者へと細かな指示を書き連ねた書状を手渡す。その目元には、後方を完璧に統治し、遠く離れた夫の戦いを十全に支える「最強の戦友」としての冷徹なまでの確信と、揺るぎない知性が鋭く宿っていた。
そこへ、并州の五原郡から馳せ戻った早馬により、一通の書状が王綏の元へと届けられた。
それは、前線での使者の役目を終えた長女・華児が、母へと宛てて認めた克明な報告便であった。
王綏がその絹布を開くと、そこにはまだ幼さの残る筆跡ながらも、驚くほど整然とした文字で、前線での出来事が詳細に綴られていた。
父が二代目の赤兎を一瞬で屈服させたこと。李傕や郭汜、そして新参の華雄が挙げた凄まじい武功の数々。戦勝の夜の幕舎にて、軍師たちが語り合っていた天下の対話をじっと聞き入っていたこと。王綏はその文字の端々から、己の血を引いた「戦力と情勢を冷徹に見極める観察眼」が、娘の内に不気味なほど確かに芽生え始めていることを感じ取っていた。
そして書状の最後には、母を安心させるための、娘らしい闊達な決意が書き添えられていた。
『父上の主戦馬は赤兎へと引き継がれ、八年もの長きにわたり前線で尽くしてくれたトトは今、とても穏やかに過ごしてございます。母上、私はこれから、トトの背に跨がり、撫軍房の女性たちと共に臨洮の実家へと向けて出発いたします。愛しいトトと共に無事に家路を駆け抜け、母上の元へと戻りますので、どうか安心してお待ちください』
報告を読み終えた王綏の厳格な顔に、ほんの僅かだけ柔らかな微笑みが浮かんだ。
「あの方ならば赤兎を御すなど当然のこと。……それにしても華児、お前はやはり、私の思った通りに育っていますね。トトを伴っての長い旅路、無事を祈っていますよ」
王綏は愛おしそうに娘の書状を文箱へと収め、邸の裏手にある広々とした厩舎へと足を運んだ。そこでは、かつて若き指導者ガルと共に戦火を駆け抜けた赤毛の老牝馬ザルマが、穏やかな春の風を浴びながら静かに佇んでいた。
王綏が優しい目元でザルマの太い首筋を撫でると、邸内には、かつてリアがこの場所に寄り添っていた頃のような、戦火の匂いを一切忘れさせる絶対的な家族の平穏が満ちていった。後方の組織は完璧であり、トトと共に歩む娘の未来も、不敵に、しかし温かく育ちつつある。
◇
――同じ刻。并州の夜の帳の中で、董卓は王綏から届けられた支援報告と、董旻の書簡を、幕舎の篝火の中へと静かにくべた。
激しく燃え上がる炎が、夜の闇を赤々と照らし出す。
微動だにせず佇むその大きな後ろ姿は、荒涼たる夜風を受け止めながら、岩のように重く沈み込んでいた。国を壊そうとして完全に野に下った友の決断と、天子が自ら切り売りしていく漢朝の有様。すべてを知った巨頭の背中には、言葉にならぬ深い苦悶の影が落ち、強靭な肩がほんの僅かだけ、闇の中で烈しく震えていた。
やがて董卓は、その震えをねじ伏せるように拳を握り締め、地鳴りのような低い声を呟きとして漏らした。
「奴は国を壊す。ならば俺は、この泥の中で、誰も飢えぬ国を建て直すまでだ」
燃え尽きる絹布の灰が、紅蓮の火の粉となって夜空へと舞い上がる。それをただ見つめる男の、圧倒的な威容を湛えた背中だけをあとに残し、并州と臨洮の夜は、深く静かに更けていく。




