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第七十六回(西暦178年)

【熹平七年(178年)・春】

北方の荒涼たる大地を吹き抜ける風は、未だ凍てつくような冷気を含んでいた。


朝廷が誇る鮮卑遠征軍の壊滅という最悪の凶報が、ついに公式の事実として北辺を震撼させた。

臧旻、夏育、田晏らが率いた精鋭たちは、異民族の猛射の前にあえなく散り、その十中八九を失って這々の体で逃げ戻ったという。

前年、并州の国境沿いにある堅固な砦に拠り、一兵も動かさず臨洮の私兵を留めていた董卓(仲穎)の背を「日和見の臆病者」と冷笑し、誹謗を重ねていた周囲の文官や将兵たちは、今や言葉を完全に失っていた。

流された血の海の跡には、并州の北辺を統べるべき巨大な支配権の空白が、ぽっかりと口を開けて取り残されていた。

董卓は、ただ静かにその覇権のすべてを総取りした。


他軍が冬の極寒と雪の舞う荒野で補給を断たれ、凍えと飢えで自滅していったのに対し、董卓はこの一冬の間、兵を寒さから完全に守り抜いていた。臨洮の董邸から届く豊かな干し肉や麦を食らい、刃毀れ一つない漆黒の鎧を油で磨きながら牙を伏せていた軍勢が、満を持して門を開いたのだ。


一切の消耗のない完璧な軍容が音もなく要衝を埋めていく。その圧倒的な威圧感の前に、かつての傲慢な宿将たちも深く腰を折り、その背中を戦慄に震わせるしかなかった。


油の匂いが染みつく砦の重い作戦室にて、漆黒の鎧を纏った賈詡が、静かに首を横に振った。


「朝廷の諸将は、大義や道徳を並べ立てて戦場へ赴きました。しかし、飢えと極寒の果てに待っていたのは、占領地での凄惨な略奪と婦女暴行による、内側からの軍律の崩壊でございます。哀れな自滅と言うほかありません」

その声を受けて、傍らに佇む李儒が、懐から一通の書状を取り出して机に置いた。衣擦れの音が冷たく響く。

「綺麗事では前線の兵の欲は抑え込めぬ。長(仲穎)はその生存の本能をすべて見つめ、鉄の規律の中に組み込まれた。臨洮の義母上(ははうえ)(王綏)が身寄りのない女子たちを募り、自ら鍛えて送り届けてくださった『撫軍房(ぶぐんぼう)』。あれをただの慰みではなく、戦功を挙げた隊長級の将にのみ利用を許す特権とされた。この即物的な恩賞の仕組みがあるからこそ、我が軍の足元は寸分の狂いもなく維持されているのでございます」


すると、賈詡は僅かに肩をすくめ、懐手をしたまま喉の奥でくくくと笑った。

「勝手に婦女を掠奪すれば即座に死罪。しかし、戦功を立てれば軍が完全に管理する極上の癒しが褒美として与えられる……。いやはや、実に恐るべき統治術でございます。手際が良すぎて、故郷に妻子を置いてきたこの私でさえ、思わず一肌脱いで隊長級の戦功を立て、あの『撫軍房』に潜り込みたくなりますな」


李儒は呆れたように僅かに身を引き、溜息を吐くように声を漏らした。

「……賈詡殿、冗談が過ぎます。あそこは義母上が目を光らせて送り出した至宝。不埒な不倫の言い訳に利用されては、義母上に申し訳が立ちませぬ」


「これは手厳しい。長、どうか李儒殿の生真面目さに免じて、私の不謹慎をお許しくだされ」

賈詡が飄々とした足取りで一歩退くと、二人の言葉を背中で聞きながら、部屋の奥に座す董卓の大きな身体が、震えるほどに豪快な笑い声を響かせた。その堂々たる佇まいは、并州の空白を完全に支配した王のそれであった。



臨洮の董卓邸にて、正妻の王綏は、洛陽から届いたばかりの定期報告の竹簡を静かに紐解いていた。

絹擦れの音だけが、仄暗い部屋に響く。


文を認めたのは、都の差配を預かる董旻であった。その文字の並びは、いかにも主人の誠実な佇まいを写すように整然としていた。


『都の情勢は、日に日に混迷の度を深めてございます。生還した敗戦将兵の姿はあまりに無惨であり、朝廷はその穴埋めのため、公然と官位を金銭で切り売りする構えを見せております。綱紀の崩壊は目を覆うばかりでございます。

先日、ある宿屋にて趙淵殿と、宮廷を追われる前夜にある蔡邕殿が、声を潜めて杯を交わす姿がございました。蔡邕殿の直言はあまりに危うく、趙淵殿もまた、大権力者たる一族の血縁ゆえの宿命にその身を震わせておられました。国を憂える者たちが、ただ衣擦れの音を寂しく響かせるのみの都に、果たして明日はあるのでしょうか。

なお、以前にお言いつけのありました女子たちの件、前線にて衣類の修繕や炊事などの後方支援に実直に励んでいると聞き、都の地より深く安堵してございます。あの折、不調法な私にはとても美しいお方々を見定めることなどできませぬゆえ、私の妻をはじめとする邸の女子たちにすべてを委ねましたが、選ばれた女子たちの実直さは今も都で語り継がれてございます。純粋なる後方の助けとして、少しでも兄上のお役に立てていれば、これ以上の喜びはございませぬ。お役に立てていれば幸いでございます』


王綏は、竹簡を持つ指先にわずかに力を込めた。


純粋に「後方支援の女子部隊を整えたい」という表の理由だけを伝え、都の董旻に人選の手伝いを頼んだ数年前のことが思い出される。生真面目な義弟は、その裏にある冷徹な軍律の意図など露知らず、ただ兄を支えたい一心で差配に奔走してくれたのだ。


始まりは、夫と軍の安寧を願う己の純粋な献身であった。それが世間の邪推を去なすための隠れ蓑を経て、前線で鉄の軍律として機能している。都の有象無象が何を囁こうとも、己のなすべき差配を果たすのみ。その佇まいに、いささかの迷いもなかった。



邸の裏手では、かつて負った深い傷を乗り越え、この一冬の間に完全なる肉体の復調を遂げた良の佇まいがあった。


かつてのぎこちなさは微塵も消え失せ、今や新たな身体の動かし方を完全に己のものとしている。重厚なる大楯を片手で軽々と扱い、泥の大地を一歩ずつ踏みしめる足取りには、力強い地響きさえ交じる。驚異的な筋力の増強を遂げたその逞しき背中には、これまでの焦燥をすべて拭い去った、不屈の自信が静かに滲んでいた。


その良の傍らを、新調された絹織物を運び、豊かな兵糧の仕分けを手際よくこなす女子たちが、穏やかな足取りで通り過ぎていく。この数年の間に、かつては無骨な男所帯であった臨洮の董邸には、確かに女性の働き手が増えていた。清々しい衣擦れの音と、家政を支える凛とした足取りが、邸内に確かな活気と温もりをもたらしている。


その時、最も奥深き厩舎の床板を、凄まじい地響きとともに力強く踏み鳴らす、漆黒の鉄蹄の音が響き渡った。


母馬ザルマの見事な赤毛と、老戦友トトの頑強な骨躯、ガルの不屈の闘志をも継いだ全盛期の赤毛の怪物。並大抵の私兵では近づくことすら叶わぬその獰猛な駿馬の背に、いま、毅然とした足取りで跨る者がいた。14歳となった長女・華児であった。


あの冬の日に旅立ちを叫び、母から突きつけられた数々の過酷な試練を執念で乗り越え、ついに全ての仕度が調ったのだ。華児が指名した李傕と郭汜の無骨な佇まいに加え、その傍らには、王綏が「万一の備え」として付き従わせた、ルカの元で牙を研いだ信頼置ける女子の私兵数名が、身軽な装束を纏って静かに控えていた。


北辺の崩壊と都の混迷を、そして何より臨洮の地で研ぎ澄まされた新たなる覇気の蹄の音を、今こそ前線の父へ届けねばならない。


華児の細い手付きに応えるように、不滅の駿馬が猛然と嘶き、春の柔らかな陽光が差し込む大地へと力強く飛び出していく。


最高傑作の牙と激しい風を巻き起こす蹄の音が、并州で待つ父・董仲穎の元へと、大乱の幕開けを告げるかのように、圧倒的な生命の躍動をもって駆け抜けていった。

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