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第七十五回(西暦177年)

【熹平六年(百七十七年)、冬】

かつて臨洮の地で私兵を募り、武の基盤を固めてから八年の歳月が流れていた。


この間、并州(へいしゅう)軍司馬・董仲穎(33歳)は、北辺の過酷な前線に駐屯し続け、朝廷からの再三にわたる出陣の督促を様々な口実で撥ね退けながら、己の兵力を一兵たりとも無駄にせぬよう丸ごと温存していた。すべては、都の公卿たちが進める無謀な鮮卑遠征が、破滅へと向かうことを見抜いていたが故の潜伏であった。


骨まで凍てつく寒風と容赦なき豪雪に閉ざされた軍陣の中、董卓の陣営だけは驚くほどの静寂に包まれていた。董卓は愛馬トトの凍える背を大きな掌で幾度も撫手し、傍らに立てかけた強弓『骨喰(ほねばみ)』に触れるのみで、未だ出陣の気配を一切見せなかった。


その側らで、主簿の李儒が冷え切った指先で木簡を素早く操り、兵站の数字を冷徹に弾き出していた。この生真面目な能吏が提示した現在の補給線の伸び切り方と兵糧の残高は、一年前に予期した通り、この進軍が戦う前に破綻しているという動かぬ証拠であった。


そこへ、雪煙を割って一人の男が滑り込んできた。かつて臨洮にてルカの手で厳しく鍛え上げられ、この前線へと配備された私兵斥候部隊『飛羆ひひ』の物見であった。息を激しく切らし、泥と雪に塗れたその佇まいは、最前線の凄惨な現実を雄弁に物語っていた。物見が地に膝を突き、低く震える声でもたらした戦況報告は、まさに地獄そのものであった。


董卓の陣営を無視して功を競い、鮮卑の領土へと深く突き進んだ他の官軍の陣営は、敵の誘い込み策に完全にはまり、退路を断たれていた。果てなき白銀の荒野で補給は完全に途絶え、凍えと飢えに狂った将兵は馬を殺して喰らい、軍列は内側から崩壊を始めているという。そこへ鮮卑の騎兵が容赦なく襲いかかり、他陣営の軍旗が次々と雪原に叩きつけられていく生々しい敗戦の様が、静かな陣幕の中に響き渡った。


報告を黙って聞いていた幕僚・賈詡が、足音もなく董卓の大きな背中に歩み寄り、密かに言葉を落とした。朝廷の試みは、まさに思い描いた通りの「自滅の策」にございます、と。遠征軍がこのまま全滅を迎えたのちには、この北辺の地に広大な地位と権力の空白が生じる。その崩壊をただ待ち、生じた全てを総取りすることこそが、真に生き残るための生存の軍略である、と。


周囲の他陣営からは「朝廷の命に背く臆病者」と烈しく謗られながらも、董卓は微動だにしなかった。その泰然たる佇まいは、単なる忍耐ではなく、崩壊した後に残されるであろう広大な并州の領土と、そこに生じる支配の空白をすでに冷徹に見据え、己の血肉へと変える算段を深く思案している気配を濃密に漂わせていた。豪傑は牙を伏せながら、静かに、そこで確実に次なる地平の覇権を手繰り寄せようとしていたのである。



一方、遥か後方にある臨洮の董卓邸では、留守を預かる正妻の王綏の元へ、洛陽に留まる董旻叔穎からの定期の書状が届けられていた。夫の仲穎が前線に赴いている間、都からの報せをいち早く検分し、一族の防備を差配することこそが、主母たる彼女の重要な役目であった。王綏は静かに木簡を開き、そこに記された義弟の丁寧な筆跡を追った。


『義姉上、寒冷の折、臨洮の実家にて皆様にお変わりなきよう、洛陽の地より謹んでお祈り申し上げます。

当地のムルも相変わらず健やかに過ごしており、住居を兼ねた宿屋の差配を滞りなく預かっております。娘たちも大きな病をすることなく育ち、賑やかな声を響かせては、日々私どもの心を和ませてくれる状況にございます。

阿音と白蘭も、今や宿の麗しき給仕として常連のお客様方から大変な人気を得ており、店を大いに繁盛させてくれる確かな柱となっております。先だっての夜も、酒に酔った他陣営の役人が漏らした本音を阿音が見事な手際で聞き届け、その傍らで白蘭が何食わぬ顔で不埒な絡みをいなしておりました。二人が日々もたらす真実の重さと、万一の際に見せる度胸の鋭さには、今なおまことに頭の下がる思いにございます。この宿には稀代の文人たる蔡邕様が、今も変わらず料理を求めてふらりと足を運ばれ、我が家の料理を深く好んでくださるのも、彼女たちの行き届いたもてなしがあってのことにございます。

趙淵ちょう えん殿も相変わらず我が宿の静けさを最も好まれ、先だっての夜も遅くまで、これからの朝廷のあるべき姿について私と熱く語り合ってくださいました。掖庭令(えきていれい)の属官として宮中の実務を実直に担っておられるあの方の言葉には、十常侍らの大物たちとは全く異なり、真に国の行く末を憂う高潔さが今なお満ち溢れております。

その頼もしき趙淵殿が、宮中の奥深くから漏れ聞こえる声として、密かに教えてくださったことにございます。現在の都は、遠征の戦果を疑わぬ狂気に満ち溢れ、公卿から市井の者に至るまで勝利の幻影に浮き足立っておりますが、実態は全く逆であるとのこと。我が宿の「耳」として潜入する阿音らが市井で集める兵卒たちの不満の雑音、そして趙淵殿がもたらしてくださる宮中の冷徹な情報を繋ぎ合わせれば、最前線へ向かう進軍の足並みは完全に乱れ、兵站の補給も滞っているという生々しい実態が浮き彫りになっております。

この無謀な試みが未曾有の大敗を招くことは火を見るより明らかであり、まことに恐ろしき事態でございます。近いうちに必ずや都へと敗戦の衝撃が吹き荒れることでしょう。

前線の兄上へもこの厳しき情勢をしかとお伝えいただき、何卒、董家一族の万全の備えをお固めくださいませ』


都の不穏な動向を記した義弟からの文を読み終え、王綏は静かに木簡を机の上に置いた。かつて都の混迷を見据え、阿音と白蘭の二人を送り出した己の差配が、今や洛陽の地で揺るぎない果実を結んでいることを確信しつつも、迫り来る敗戦の衝撃に備えるため、彼女は傍らに控える良へと静かに語りかけた。都の朝廷が狂気に突き動かされ、近いうちに未曾有の大敗と破滅が押し寄せるやもしれぬこと、それ故にこの臨洮の邸の守りを一層引き締めねばならぬことを、毅然とした声で伝えたのである。


古参の使用人である良は、主母のその言葉を静かに受け止め、深く一礼した。かつての烈しい戦いで右目と左腕を失う大怪我を負った彼の身体は、いまだ往年のようには動かない。いつの日か再び主の背を追って戦場へ這い上がるべく、日々必死に己の身体の使い方を慣らしている最中であった。現在の彼にできる役目は、邸内の雑用や買い出しの補助といった細かな日々の仕事に過ぎない。


しかし良は、不自由な我が身を静かに噛み締めながらも、主の留守とこの家を足元から支えるべく、実直に己の務めを果たそうとただ黙って佇まいを正した。その実直な背中は、邸の奥で健やかに育つ13歳のお転婆な華児、亡きリアの遺児である11歳の弦児、そして9歳となる嫡男の承の平穏な日常を、静かに、そして確かに支えていた。


主母の命は、練兵場を管轄するルカの元へも直ちに伝えられ、私兵部隊による邸の外周の警戒は一段と厳重なものへと引き締められていった。しかし、その庭の練兵場には、厳冬の寒気をも焦がすような峻烈な空気が満ちていた。


かつてこの場所で、董仲穎の私兵に混じって木剣を握り、泥に塗れていた少年・牛輔の姿は、もうそこにはない。25歳を迎えた彼は、すでに一人前の武官として家門の命を帯び、婚姻を済ませて邸の外へと頼もしく巣立っていったのであった。


代わってルカの左右に佇むのは、かつて下級武官の馬元義によって捕縛され、あの折の約束通りに引き渡された二人の凶牙――李傕と郭汜であった。


連れてこられた当初の二人は、ただの泥臭い指名手配犯、凶悪な荒くれ者に過ぎなかった。理不尽な捕縛に激しく反発し、ルカの峻烈なしごきに対して狂犬のごとく牙を剥いて抵抗したのも、今や遠い過去のことである。彼らの尖った心を溶かしたのは、凍える涼州の夜にあっても決して途切れることのない温かい寝床と食事であり、そして何より、主母たる王綏の毅然とした、それでいて慈愛に満ちた佇まいであった。


飢えのない暮らしの中で、二人はいつしか王綏を「第二の母」と仰ぐほどに深く慕うようになっていった。邸内で健やかに育つ華児や弦児、嫡男の承といった一族の子供たちに対しても、かつての刺々しさは消え失せ、今や我が身を賭しても守るべき大切な存在として深い情愛を抱いている。かつての敵であった羌族の仲間たちとも今や固い絆で打ち解け、董家という一つの「家族」の盾となるべく、私兵集団の一角として血の滲むような成長を重ねてきた。


八年という果てなき歳月の調練は、獰猛極まる凶賊の牙を、董家への絶対の忠誠を宿した至高の将へと磨き上げていた。俊敏な動きで精強な陣形を的確に指揮する李傕。そして、巨大な体躯と怪力で揺るぎない盾の壁を支え、防陣を完璧に統率する郭汜。二人の背中からは、かつての粗暴さは消え失せ、一軍の指揮官に相応しい頼もしき覇気が漂っていた。ルカの手足として、この涼州の防備を前線のごとく差配する二人の佇まいは、まさに董家が我が子のように育て上げた、最高傑作の牙そのものであった。



邸の最も奥深き厩舎では、寒風を遮る藁の中で、赤毛の牝馬ザルマが穏やかに息を吸い込んでいた。かつてあの凄惨な夜襲の折、戦死を遂げた羌族の若き指導者・ガルと共に死線を駆け抜け、深い戦傷を負いながらも、愛馬トトの血脈を宿してこの地に新たな命を産み落としてから、八年の歳月が流れていた。


今や、あの折の仔馬は、母譲りの見事な赤毛と父譲りの頑強な骨躯を併せ持つ、二代目たる不滅の駿馬へと逞しく成長を遂げていた。並大抵の私兵では近づくことすら叶わぬその獰猛な気性を、今、優しく、しかし毅然とした手付きで宥めているのは、長女・華児であった。


母・王綏の家政を手伝う傍ら、ルカの調練に飛び入り、老境のザルマを駆って買い出しに付き従う。そんな邸内一の活発なじゃじゃ馬娘の言うことだけは、ガルの魂を継ぐかのようなこの赤毛の怪物も、不思議と耳を伏せて大人しく従うのであった。


「よしよし。お前も、お父様のところへ行きたいのね」

柔らかな毛並みを撫でながら、華児の恐れを知らぬ瞳が、薄暗い厩舎の奥で細められる。


練兵場で泥にまみれ、若き日の父親に重なる誠実さをもって愚直に木剣を握る弟・承の姿。そして、邸の奥で侍女頭・木蓮の隣に座り、亡き母リアの聡明さを継いで交易の帳簿を冷徹に弾く兄・弦児の気配。それら董家の未来を背負う子供たちの息吹が、この静かな厩舎の熱気と確かに重なり合っていた。


敗戦の予兆に揺れる都の不穏を、今こそ前線の父へ届けねばならない。

華児の細い指先に応えるように、二代目の太き脚が床板を力強く踏み鳴らした。いつでも戦の庭へと飛び出すための鋭き爪牙を、後方にて着実に研ぎ澄ましていたのである。


「李傕、郭汜。私の旅の仕度をして頂戴」

北辺の崩壊と都の狂気の狭間で、最高傑作の牙と新たなる蹄の音が、父・董仲穎の元へと嵐を巻き起こしに向かうその時を、静かに、しかし確実に待っていた。

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