第七十一回
仲穎の広く大きな体躯が、粗削りの床板を激しく軋ませて立ち上がった。
都の腑抜けどもを叩き潰せと、地を這うような言葉を残し、その分厚い背中が書斎の戸の向こうへと去っていく。
重々しい足音が廊下の奥へ消えた瞬間、部屋には、開け放たれた窓から吹き込む臨洮の冷たい風の音と、李儒が静かに墨を磨る音だけが残された。
主君の放った圧倒的な威圧感の余韻が部屋を満たす中、李儒は背筋を寸分の狂いもなく正したまま、墨を磨る手を止めなかった。
その細い指先には、主君の家を脅かす者への鋭い敵意が籠もっている。
対面に座す賈詡は、旅の塵をまとった衣の襟元を緩そうにそっと引っ張り、あくびでも噛み殺すかのように、ただ卓の上に広げられた古い木簡を眺めていた。
28の男が醸し出すその佇まいは、23の李儒の硬さとはまるで異なり、いかなる嵐の最中にあっても風に柳がなびくが如く、どこか他人事のようにのんびりとした空気をまとっている。
李儒は不意に墨を磨る手を止め、その佇まいを一段と硬くして問いかけた。
「武威の賈文和殿」
「おや、何にございますか、若き幕僚殿。そんなに怖い顔をなさらずとも、霧はすでに晴れておりますよ」
賈詡は、手にした筆の毛先を鼻の頭で弄びそうになるのを堪えるかのように、気の抜けた声で応じた。
「洛陽の書庫の最深部にある動きなど、地方の一文官にすぎぬ身で、そう容易く掴めるはずがございませぬ。病を称して都を辞した男が、なぜこれほど尖った知恵の手土産を携え、真っ直ぐにこの董家の門を叩いたのです。貴殿の真の意図はどこにある」
主殿を、そしてこの家を守るため、李儒は新参の男に対する警戒の気迫を隠そうとはしなかった。
生真面目な若き文官の鋭い問いに対し、賈詡はただ、ふっと肩の力を抜き、面白そうに首を傾げてみせた。
「意図、などと大層なものはございませんよ。ただの打算、それも極めて後ろ向きなものにございます」
賈詡の声は、どこまでも軽やかで、熱い忠義も大義名分も一切感じさせなかった。
ただ、世の嵐をのらりくらりとすり抜けてきた、風来坊のような響きだけがあった。
「私は都で、偉い名士様方が互いの足を引っ張り合う様を、端の方で退屈に眺めてまいりました。文字の一筆で名門の首が飛び、制度の罠で一族が根絶やしにされる。あそこは、私のように命が一つしかない臆病者が長居する場所ではございませぬ。天下の風向きが変わる今、生き残るために必要なのは、都の虚飾に満ちた血統ではなく、この涼州の地に厳然とそびえる、いかなる文字の刃も弾き返す『頑丈な盾』にございます」
賈詡は、まるで手遊びでもするかのように、静かに筆を墨へと浸した。
「主殿の側に座っていれば、都の矢も届きますまい。私が今朝、この門を叩いたのも、その盾の影が最も日陰として涼しく、死から遠いと踏んだからにございます。私が生き延びるためには、主殿の盾をさらに頑丈にせねばなりませぬ。貴殿の抱く熱い忠義とは、随分と出処が異なりましょうが、導き出す実務の答えは同じにございますよ。まあ、そう硬くならずに、墨をこちらへ」
ただの冷徹漢ではない李儒の、主君を想うがゆえの生真面目な頑なさを、賈詡は年長者らしい飄々とした佇まいで、煙に巻くように受け流してみせた。
李儒は、男の言葉に一切の嘘偽りがないこと、そしてその臆病を隠さぬ態度こそが逆に底知れぬ強かさであることを察し、無言のまま磨り終えた墨の器を卓の中央へと押し出した。
二人の間に、不思議な信頼とも異なる、実務者としての確かな地脈が通った刹那であった。
賈詡は、長すぎる袖を邪魔そうに少し捲り上げると、そこからは驚くほど淀みのない動作で木簡へと墨痕を刻み始めた。
都の役人どもが、仕官よりさらに前の王渙処断の過去を突き、董旻の郷挙里選を阻もうとするならば、その王渙がかつて都のどの有力者へ金を流し、いかなる汚職の根を張っていたか、その「都の腐れ」を逆に地方の官府の公式な目録を以て朝廷へ突き返す文を編み上げる。
のらくらとした佇まいとは裏腹に、筆が走るたびに、木簡の上に寸分の隙もない文字の陣地が築かれていく。
それは、相手が放った刃を逆手に取り、洛陽の喉元へと鋭く突き返す、あまりに怜悧で容赦のない反撃の書状であった。
夜明け前から一人で木簡と格闘していた李儒も、その一筆の凄絶な冴えを前に、無言のまま居住まいを正さざるを得なかった。
都の陰謀がいかに泥深くとも、この臨洮の書斎で紡がれる文字の盾は、すでに都の権力者どもの絡め手を完全に無力化するだけの地力を備えつつあった。
開け放たれた窓から、なおも冷たい風が吹き込み、二人の衣を激しく揺らす。
門外からは、ルカの厳しい叱咤と、それに応えて泥を蹴る少年・牛輔の荒々しい声が絶え間なく響いていた。
武の牙と、飄々たる知恵。董家という巨大な胎動が、この小さな書斎の墨痕から、静かに、しかし確実に洛陽へと向けて放たれようとしていた。
◇
臨洮の地を離れて数日、馬車は険しい隴山の峠を駆け抜け、八百里に及ぶ広大な関中平野へと滑り込んでいた。
行く手には、滔滔と流れる渭水のうねりと、乾いた平野を貫く一条の官道がどこまでも伸びている。都へと続くこの大地を、馬車は猛烈な土煙を巻き上げながら東へと突き進んでいた。
激しくきしむ木輪の音が、乾いた大地を削り取るように響き渡っていた。
かつて、背に浴びる日の長さを測りながら、一歩ずつ泥を踏みしめて進んだあの長い道。洛陽の家で帰りを待つムルと肩を並べ、土煙に巻かれながら歩いた果てしない道のりが、今は嘘のように後方へと流れ去っていく。
馬車の床は絶え間なく突き上げ、骨を震わせるほどの衝撃を伝えてくる。それでも、揺れる車内で端座する背筋は、一寸の曲がりもなく垂直を保っていた。衣服の袖に積もる白い塵を、細くしなやかな指先が静かに払う。
胸の奥には、兄から託された重みがある。并州の苛烈な戦場を生き抜き、今は故郷で静かに牙を研ぐ大柄な背中。その兄を、都の生ぬるい風の中に座す者どもが、地方の粗暴な武者と侮り、その足跡を消し去ろうと画策している。
(遅れをとるわけにはまいりません)
声には出さず、ただ心の中で呟く。一刻も早く都へ至り、蠢く陰謀を叩き潰さねばならない。それは、留守を預かる彼女が守るあの静かな家を、再び戦火や権謀の渦に巻き込ませぬためでもあった。
御者の鋭い掛け声とともに、前方の視界が大きく開けた。行く手にそびえるのは、次の宿駅へと繋がる堅牢な関門である。かつては歩みの遅い徒歩の旅人として、槍を構える防人たちの背を低く見上げるだけだったその門が、今は馬車の速度のまま、またたく間に近づいてくる。
どれほど都の闇が深くとも、礼節という名の刃を研ぎ澄ませ、すべてを正道をもって叩き潰す。若き実弟は、揺れる車中から前方の一点を見据えたまま、轟音とともに洛陽へと突き進んでいた。
◇
臨洮の書斎に、傾いた夕陽が長い影を落としていた。
大柄な主君は、机上に広げられた竹簡に刻まれた文字を、ただ静かに追っていた。かつて都へ流れた金の目録。それを逆手に取り、汚職の根を冷徹に抉り出す文。
己の手には、弓を絞り、刀を振るう力しかない。文字をこねくり回す都の腑抜けどもを、その身内の手で搦め手から締め上げるような怜悧な技は、どれほど逆立ちしても真似できぬものであった。
読み終えた仲穎は、大きく息を吐き出し、豪快に太い首を鳴らした。
「……大したものだ。よくもこれほど寸分の隙もない文を編めるものよ。俺には到底できん真似だ」
飾りのない率直な称賛の響きに、傍らで居住まいを正していた李儒が、微かに肩を揺らして一礼する。少し離れた席で、相変わらずのらくらと佇んでいた武威の客分も、衣服の裾を整えながら、独り言のようにつぶやいた。
「主殿にそう言っていただけると、筆を執った甲斐もあるというもの。されど、かの地は今、些か血の匂いが過ぎるようで。曹家の若造が、門に五色の棒を掲げて狂犬のごとく吠え立てております」
仲穎は応えず、ただ背中で先を促した。
「掟を破れば容赦なし、と。寵愛深き宦官の身内であろうと、夜間に歩けば容赦なく棒で打ち殺したとか。都の腑抜けどもは、戦怯えの烏のように震え上がっているとのことにございますな」
賈詡の言葉には、都の混沌を愉しむような、冷ややかな響きがあった。
それを聞いた仲穎の大きな背中が、わずかに揺れた。都の汚職に身をやつし、身内の足を引っ張ろうとする蛆虫どもに比べれば、法を掲げて権力者を叩き殺す若造のほうが、どれほど小気味よく、頼もしい役人に見えるか。
「……面白い。都にも、骨のある奴がまだ残っていたか」
低く笑う主君の声には、確かな感興が混じっていた。手の中の竹簡を巻き直すと、それを李儒へと突き出す。
「早馬を放て。旻の郷挙を阻む奴ばらの鼻面へ、この文を叩きつけてやれ。都の泥を、その若造ともども掻き回してやるのだ」
「御意」
李儒が竹簡を恭しく受け取り、一礼して退室する。その確かな足音が廊下に響き渡る。
主君は立ち上がり、夕刻の乾いた風が吹き込む窓外へ、その頑強な背を向けた。都で誰が暴れようと、我が道を阻む者はすべて叩き潰すのみ。
新たに二つの俊才の頭脳を得た大柄な佇まいは、迫り来る時代の嵐を真っ向から迎え撃つかのように、夕闇の中でどこまでも巨大にそびえ立っていた。
夕闇が臨洮の屋敷を包み込む頃、奥向きの勝手口には、薪がはぜる温かい音と、仄かな湯気が満ちていた。
薄暗い裏庭で、片方の袖を帯に固く挟み込んだ男の背中が、ゆっくりと動いていた。仲穎と同い年の使用人、良である。かつて董家を襲った凶刃の爪痕は重く、残された一本の右腕だけで、水を張った重い桶を器用に腰で支えながら運んでいる。体の軸はわずかに傾いていたが、その足取りには、日ごとに確かな力強さが戻りつつあった。
「良さん、それくらいにしておきなさい。また傷が開いたらどうするのです」
勝手口から声をかけたのは、台所を預かる木蓮であった。呆れたような、しかし底に確かな労わりのある響き。良は足を止め、振り返る代わりに、残された右の肩を小さくすくめてみせた。
「……動いている方が、楽ですから。木蓮さん」
ぽつりと言葉を置き、片腕だけで桶を下ろす動作は、驚くほど滑らかであった。都の陰謀に立ち向かうため、書斎で文官たちが智略を巡らせ、馬場で少年が泥にまみれている間、寡黙なこの男もまた、己の戦場である董家の日常を守るために立ち上がろうとしていた。
木蓮が差し出した乾いた布を受け取り、良は慣れた手つきで額の汗を拭う。失われた部位がもたらす不自由さを、決して憐れませぬような、毅然とした後ろ姿。
「旦那様たちも、戻られた。……すぐに、追いつきます」
短く途切れがちな言葉の底に、同じ家を守る者としての静かな決意が滲む。木蓮はただ小さく息を吐き、良の健気な背中を静かに見守った。
良が視線を巡らせた先、少し離れた厩舎の奥からも、静かな息遣いが聞こえていた。
そこには、西域の血を引く燃えるような二頭の赤毛が、互いに長い首を寄せ合うようにして並んでいた。仲穎を乗せて数々の修羅場を駆けたトトと、かつて主君を刺客の凶刃から守って壮絶な最期を遂げた戦友ガルの遺した同じ汗血の愛馬、ザルマである。
あの夜の深い傷ゆえに、ザルマはもう戦場を駆けることはできず、今は良が静養を終えるまで木蓮が引く街への買い出しの荷車を、静かに支える身となっていた。夜の冷気が降りる中、二頭は互いの体を温め合うように、優しく肩を擦り寄せ、低く甘えるような音を鼻の奥で鳴らしていた。亡き主の面影を宿すザルマの寂しさを、トトの大きな背が静かに包み込んでいるかのようだった。
かつての惨劇の痛みは消えずとも、この家には、傷を抱えながらも寄り添い、前を向いて生きる人々と獣たちの、確かな営みと温かさがある。
屋敷の窓々に、次々と橙色の灯火が灯っていく。東の都へ向けて激しい嵐の一矢が放たれたその夜、臨洮の董家の奥底には、何者にも脅かされぬ、静かで力強い暮らしの息遣いが深く息づいていた。




