第七十回
【 建寧二年(百六十九年)夏 】
朝霧が、まだ重く大地にへばりついていた。
隴西郡臨洮、その外れにある董家の私邸は、夜明けの冷気の中でひっそりと佇んでいる。
門の前に立ち尽くす仲穎の背中は、微動だにしない。
その分厚い肩に、薄い麻の衣が朝露を吸って張り付いている。
街道の先、先ほど放たれた馬車が巻き上げた砂塵は、霧に溶けてとうに消えていた。
洛陽へと再び赴いた弟、董旻の行く手を遮るであろう都の闇を、仲穎は己の大きな拳を握り締めることで測っているかのようであった。
一歩後ろに控える王綏が、腕の中の幼子、承をそっと抱き直す。
衣の擦れる微かな音が、静寂に弾けた。
その足元には、長女の董華が、亡きリアの遺児である董弦の手をしっかりと繋いで寄り添っている。
王綏は元は匈奴に実の親を殺され、王渙の短い養女期間を経てこの家に嫁いだ身であったが、自らが産んだ幼き我が子たちだけでなく、この家に遺された弦をも我が子と何ら変わらぬ確かな慈しみで包み込み、不在がちであった夫の家を内から守り抜いてきた。
幼き子供たちの小さな息遣いが、冷えた空気の中で白く弾けては消える。
家を揺るがす数々の業を知りながらも、愛する家族を背で庇うように立つ夫の隣で、王綏の佇まいには微塵の乱れもなかった。
仲穎は振り返ることもなく、ただ低く、地を這うような声を出した。
「行ったか」
「はい。お健やかに、霧の向こうへ。華も弦も、しっかりと叔父上の背中を見送りましたよ」
王綏の静かな言葉に、幼い二人の子供は無言のまま深く頷き、父親の大きな衣の裾をそっと握りしめる。
仲穎は一度だけ、深く息を吸い込み、我が子たちの小さな頭へ大きな掌をぽんと置くと、そのまま大きな歩幅で敷居をまたいだ。
その時、外の馬場の方から、荒い足音と泥を蹴る音が響いた。
朝一番の調馬と訓練を終えたのであろう、近隣の小豪族の倅、牛輔が息を白く弾ませながら走って駆け寄ってきたところであった。
16の少年であり、董家の内側へは入らぬ一線を保ちつつも、その佇まいには仲穎の武勇への純粋な憧れが満ちている。
その少し後ろ、馬場の柵の側には、董家の私兵を厳しく統率するルカの、小柄ながらも寸分の隙もない強固な佇まいがあった。今朝も早くから牛輔ら若手を厳しくしごき終えたルカは、小躯に鋭い気迫を漲らせ、門前へ駆け出す少年を無言のまま見守っている。
泥にまみれた前垂れを揺らし、無骨ながらも真っ直ぐな敬礼を仲穎の背中に捧げる少年の体からは、熱い汗の匂いが立ち上り、静まり返っていた門前を微かに揺るがせていた。
仲穎は少年へ言葉を返す代わりに、無言のまま一度だけ、深く首を縦に動かしてそれに応じると、母屋の奥にある書斎へと進んだ。
そこには、すでに一本の灯火が揺れていた。
「お早いお着きで。冷えが骨に染みますな」
卓の前に座す李儒が、静かに頭を垂れる。
戦場での激務は一段落していたものの、生真面目なこの若き文官は、都への戦功報告の遅れが気になり、夜明け前から一人書斎に籠もって木簡を精査していた。
仲穎が并州軍司馬の時代にその才を見出し、側近として連れ帰った私直の幕僚。
職歴においては旅立った董旻の先輩にあたる若き文官が、一切の雑音を立てずに木簡を並べ替えていた。
仲穎は、粗削りの床板を軋ませて座した。
卓の上には、李儒が引き出してきた古い木簡が置かれている。
仕官よりさらに前、仲穎が強弓を以て王渙を直々に射殺し、官府へ引き渡して決着したはずの過去の事件。
その古き記録が、今になって不穏な影を落とし始めていた。
李儒の指が、木簡の端を激しくなぞる。
「主殿が王渙を処分した際の臨洮の記録、その本紙が、洛陽の書庫で俄かに動かされております。并州での我らの戦功に対する恩賞が都の途中で滞っているのも、偶然ではございませぬ。王渙の古い縁者が、都の有力者へ働きかけ、我らの足をすくわんとしております」
若き李儒の佇まいには、主君への忠義ゆえの鋭い敵意が滲んでいた。
仲穎がその報告を重く受け止め、拳を固く握り締めたその時、廊下から門衛の静かな足音が近づき、戸の外で控えた。
「主殿、武威郡の賈氏と名乗る文官が、門前にてお目通りを求めております。主殿へお渡ししたい緊要の書状がある、と」
仲穎と李儒が微かに肩を動かした刹那、戸が開かれ、一人の男が静かに招き入れられた。
それが、賈詡であった。
仲穎よりいくつか年上のその文官は、旅の塵をまとった衣を静かに払い、一歩引いた位置で滑らかに頭を垂れた。
初めて対面するその佇まいは、取り澄ました都の役人とも、荒々しい涼州の武人とも異なり、どこか世の理をすべて見通したかのような、底知れぬ静けさを湛えていた。
李儒の鋭い視線が、新参の男の足元を射抜く。
しかし賈詡は、その警戒を意に介する風もなく、懐から一本の竹簡を取り出して卓の上へと滑らせた。
「武威の賈文和にございます。并州にて鮮卑を退けた高名を慕い、涼州の英傑たる主殿の盾の頑丈さを、この目で確かめに参りました。これは、我が知己より密かに預かった、洛陽の書庫の動きにございます」
李儒が素早くその竹簡を拾い上げ、目を走らせる。その肩が微かに強張った。
仲穎は低く、地を這うような声で男を値踏みした。
「文字の出処は、洛陽の郎官の書庫か。武威の賈文和、お前は何者だ」
賈詡は、細い指先で自身の衣の汚れをそっとなぞり、微かに佇まいを緩めた。
「つい先達てまで、都でその郎官の端くれに座していた男にございます。されど、官宦と名士の泥沼の闘争を見届けるに及んで、今あの場所にいるのは命がいくつあっても足りぬと、病を称して官を辞し、涼州へ引き揚げてきたばかりにございます」
賈詡は、低く、しかし驚くほど明瞭な声でぽつりと言った。
「騒ぐほどのこともありますまい。名士どものやることは、いつの世も同じにございます。彼らは力では勝てぬゆえ、文字で殺しに来るのです。主殿の過去の咎を突けば、今まさに都へ向っている弟御の郷挙里選の推薦など、一筆で吹き飛びましょう。それが彼らの絡め手にございます」
李儒は木簡から賈詡へと視線を戻し、その若さゆえの鋭い敵意を、男の底知れぬ眼差しへとぶつけた。
だが賈詡は、己の身の安全を第一に図る男の、冷徹極まる佇まいのまま言葉を続けた。
「されど、裏を返せば、都の連中はそれほどまでに涼州の『力』を恐れているという証拠。主殿という頑丈な盾がここに厳然とある限り、文字の刃など、いくらでも受け流せるというもの。私がこの門を叩いたのも、その盾の側に座るのが、最も死から遠いと確信してのことにございます。ならば、その盾にふさわしい、役人の役立たずどもを黙らせる実務の文を、今この場で私が編んでご覧に入れましょう」
男の言葉には、熱い忠義はない。ただ、「この主君を生かすことが、己の生に繋がる」という、先見の明による打算だけがあった。
仲穎は、賈詡が持参した竹簡を睨み据え、卓の上の木簡を握り潰さんばかりに拳を固めた。
その顔の造作は灯火の陰で見えねど、溢れ出る威圧感が部屋を満たす。
「儒よ、文和に筆を持たせよ。我らは一歩も引かぬと、都の腑抜けどもに叩きつけてやる」
「御意」
李儒が、静かに墨を磨り始める。
賈詡は一礼すると、袖を払い、淡々と木簡へ筆を走らせ始めた。
開け放たれた窓から、臨洮の冷たい風が吹き込み、三人の衣を激しく揺らす。
門外からは、なおも少年・牛輔が馬を調え、それをルカが厳しく見守る荒々しい声が響いてくる。
洛陽の陰謀がどれほど泥深くとも、この臨洮の地には、若き牙と、実直なる防人、そして今しがた合流した底知れぬ知恵が、静かに熱を帯び始めていた。
董家の書斎は、迫る文字の決戦へ向けて、熱く激しく、その胎動を始めていた。




