第六十九回
【 建寧二年(百六十九年)夏 】
夏の燦燦とした陽光が、涼州の臨洮にある董卓邸の門前を暑く照らしていた。
その静寂を破るように、二つの異なる方向から、地鳴りのような足音が同時に近づいてくる。
東の都へと続く街道から姿を現したのは、一台の頑丈な荷馬車であった。そして北の并州前線から駆けてきたのは、砂塵をまとった数騎の騎馬隊。
「……兄上!」
馬車の御者台から身を乗り出し、弾んだ声を上げたのは董旻であった。都での官吏登用(郷挙里選)の推薦を得るため、寝る間も惜しんで学問に励んできた彼は、数年ぶりの故郷の土を踏む喜びに顔を輝かせている。
「叔穎か……!」
馬背の上で手綱を引き、引き締まった顔に驚愕と心からの喜びを浮かべたのは、董仲穎である。并州での劉猛一派との戦いに目処をつけ、次なる防衛の調達と協議のために一時帰還した現場の指揮官は、あまりにも完璧なタイミングでの実弟との再会に、その硬質な佇まいを崩して微笑んだ。
その声に応じるように、邸の門内から、正妻の王綏が侍女頭の木蓮や、療養中の良、私兵を率いるルカを伴って駆け出てくる。木蓮の傍らには華児が、そして良の隣には、静かに佇む幼き董弦の姿があった。
「……綏」
仲穎は素早く馬から下りると、先月、凄まじい覚悟の果てに生まれたばかりの、己の新しい我が子――待望の嫡男をその腕にそっと抱き上げた。
小さな、しかし確かな命の重み。家族を想う実直な武人の顔に、この上ない、心からの笑顔が爆発する。
李儒もまた、主君のその笑顔を静かに見守り、良は深く頭を下げてその無事を喜び、ルカは武人らしく実直に一礼した。
仲穎の言葉から、馬車の下にいる若者が義弟であると知った王綏は、そっと前へ進み出ると、初対面の挨拶を交わした。
「あなたが、洛陽におられた叔穎様ですね。主からお話はよく伺っておりました。無事のお帰り、何よりです」
「初めまして、お義姉上。董叔穎です。兄上を、そしてこの臨洮の邸を支えてくださり、ありがとうございます」
董旻は衣服の埃を払い、深く一礼して応じた。
「叔穎様、お疲れ様でございました。……して、そちらの馬車には、どなたか他に乗っておいでですか?」
続いて木蓮が大きな荷馬車の周りを見回しながら尋ねると、董旻は丁寧な笑みを浮かべて答えた。
「ええ、実は都の家の留守を守っているムルが選んだみなさんのお土産なんです」
都へ向かう長い道中、ムルの商売を董旻が機転で助け、路銀を稼ぎながら各地で独自の強固な人脈を築いてきた。そんな自分を公私共に支え、今は洛陽の家を守る大切な女性の近況を、董旻は誇らしげに付け加えた。
「ムル、か……。あいつが都で、お前を支えてくれていたのだな」
懐かしい名を聞いた仲穎が低く呟き、傍らの良もまた、失った右目の奥を和らげるようにして嬉しそうに小さく頷いた。
「ほら、木蓮さん、これは華児ちゃんに。良、これは都の薬です。体に障りますから、どうか無理をしないでくださいね」
董旻は親しみを込めて良に呼びかけ、楽しげにお土産を配っていく。華児が声を上げて喜び、邸内はこれ以上ない光に包まれていた。
その時、董旻の視線が、良の足元に隠れるようにしてこちらをじっと見つめている、一人の幼い男の子の姿に留まった。
「……兄上。良の隣にいる、その大人しい男の子は、どなたのお子さんですか?」
丁寧な口調で尋ねる董旻に対し、仲穎は抱いていた赤子を優しく王綏へと返し、董弦の小さな頭に大きな掌をそっと乗せて言った。
「俺と、リアの子だ。名は弦という」
「――リアの子、ですか!?」
董旻は激しい驚きに目を見張った。都へ旅立つ前、同じ家で呼び捨てのまま無邪気に笑い合っていたあの「リア」が、兄の側室となり、我が子を産んでいた。
「兄上とリアのお子さん……では、この弦は俺の甥になるのですね! よくぞ無事で……。良、弦をこれまで守ってくれてありがとう」
董旻は甥である弦にも都の珍しい玩具を渡す。
ひとしきり再会を喜び合ったあと、董旻は馬車の奥から、ひときわ上質な絹の反物と、都で一番評判の美味い菓子の包みを取り出した。
「さあ、これはムルから『とっておき』だと預かってきたものです。『これは私からアランの姉さんとリアへの贈り物! リアの墓前に真っ先に供えて、あの子は都で元気にやってるよって驚かせてあげてね!』って、都ですごく張り切って仕入れてくれたんですよ。……兄上、リアの墓はどこにありますか? 早くあいつにこれを見せて、弦というこんなに可愛い宝物を遺してくれたことを、墓前で安心させてあげたいのです」
董旻の実直な、丁寧な声が秋の空に響いた。
その瞬間、王綏の、木蓮の、あるいは良の表情が、一瞬にして凍りついたように静止した。
「……綏。叔穎」
一歩、前に進み出たのは兄の仲穎であった。
その瞳には、先ほどまでの父親の温もりは消え失せ、すべてを背負う冷徹な眼が宿っていた。
都にいた董旻に届いていたのは、葬儀を終えたという最低限の訃報のみ。彼は、リアが亡くなったという事実こそ知っているが、彼女が王渙の不正を暴いた裏で「刺客の凶刃に倒れて横死した」という、かつてのアランと同じ凄惨な暴力を受けて逝った内情を、何一つ知らされていないのだ。
「リアの墓は、裏山にある。……あいつがどうして死んだか、俺の口からすべてを話す。ついてこい」
仲穎の低く、硬い声音が、陽だまりの邸に重く沈み込む。
その兄の横顔を見た瞬間、綺麗事の学問を修めてきた董旻の身体が、不穏な予感に強張った。
都と地方を隔てていたあまりにも遠い距離の果てに、避けては通れぬ過酷な真実の時間が、今、静かに幕を開けようとしていた。
邸の門前を包み込んだ沈黙は、にわかに吹いた乾いた風によって、ただ砂を噛むような重さへと変わる。
董旻は、手にした包みを握りしめたまま、一歩を踏出した兄の姿を見据えていた。
「兄上」
董旻の声は、いまだ穏やかで、均整が取れていた。
「皆様の様子が、妙です。リアの身に、何があったのですか。ただの病ではないのでしょう。都へ届いた文には、あまりに省かれた文字が多うございました」
仲穎は、弟の双眸を真っ直ぐに見返した。
「旻、落ち着いて聞け。お前が都で励んでいる間、この地で影が動いた」
「影、ですか」
「義父上の不義を暴いた。その際、あの御方の放った刺客どもがこの邸に迫った。リアは奴らの接近をいち早く察知し、変を知らせんと急ぎ邸へ引き返そうとした……その途上、奴らの凶刃に貫かれた。俺の盾となったのではない。我が家の危機を救おうと、必死に抗って果てたのだ」
仲穎の言葉は短く、事実のみを削り出した石のようであった。
「……まさか、あの義父上が」
董旻の言葉は、そこで完全に途切れた。
手の中にある、ムルから託された土産の包みが、指の力でみしりと音を立てた。
「それは、あまりに不条理でございます」
董旻の視線が、兄を射抜く。
「我らは、漢朝の法を信じ、正しき道を歩まんと泥を這うてまいりました。兄上が兵を率いて国に尽くし、私が都で人脈を広げ、董家の基盤を築く。その最中に、家の中で女子の命が奪われるなど、あってはならぬことです。恩義ある義父上であろうとも……その者の血は、まだこの大地に流れておらぬのですか」
「処分は終わっている。だが、根は深い」
「兄上。私は、学問を修めてまいりました。理不尽を理不尽のまま呑み下すために、竹簡を読んできたわけではございません。リアは、私の大切な友でもありました。ムルも、都でただ涙を流し、せめてもの弔いにと、この土産を私に託したのです。病に倒れたとばかり信じ、これを供えてあいつを安心させてやろうと考えていた己の浅はかさが、許せません」
董旻は一歩、また一歩と兄へ近づく。
「裏山の墓前へ参ります。兄上、どうか私を、彼女の元へ連れて行ってください。この土産を供え、何が起きたのか、私の耳で、兄上の口からすべてを聞き届けます。董家の者として、これ以上の欺瞞は、私自身が許しません」
仲穎は、そんな弟の姿を静かに見つめ、頷いた。
そのただならぬ空気を感じ取り、傍らに控えていた李儒が静かに衣服の乱れを正した。
これ以上は、董家の血を引く者たちだけで語られるべき領域である。一人の若き文官としての鋭い才覚は、即座にその判断を下していた。
李儒は一歩下がり、深く一礼する。
「……では、私はこれにて役所へ向かいます。并州の戦にて消耗した兵糧の確認、ならびに減員した兵力の補充など、部隊の再編成に関する事務が山積しておりますゆえ。みなさま、失礼いたします」
あえて公の軍務を大義名分として口にし、兄弟が二人きりになる道を作った。
その配慮の深さを、仲穎は多くを語らずともすべて察した。硬質な双眸を李儒へと向け、低く、しかし確かな信頼を込めて応じる。
「すまない。よろしく頼む」
「御免」
李儒はもう一度だけ頭を下げると、振り返り、邸の門前を静かに辞去していった。その足音が遠ざかり、完全に二人きりとなった門前で、仲穎は弟の姿を静かに見つめ、小さく頷いた。
「行こう、旻。リアの墓は、この家のすべてを見下ろす場所にある」
二人は歩み出した。
邸の裏手から続く木の間道を、二つの足音が踏み締めていく。
先を行く仲穎の背は、并州の戦塵をまとったまま、鉄の如く硬く、険しい。
その後ろを歩む董旻の指先は、布に包まれたムルの土産を、割れ物のように強く握りしめていた。
洛陽の乾いた風とは違う、故郷の、土と草の匂いが鼻腔を突く。それが、かつてこの地で笑っていた一人の女がもうどこにもいないという実感を、一歩ごとに重く突きつけてきた。
坂を登り詰めた小高い丘の頂に、真新しい土饅頭があった。
周囲の雑草は均され、ただ一つ、荒削りの石が墓標として据えられている。
眼下を見下ろせば、董家の邸の全景が、まるで掌の中の箱庭のように見えた。ここが、仲穎の言った「すべてを見下ろす場所」であった。
董旻は、墓標の前にゆっくりと膝を突いた。
泥が衣服を汚すのも構わず、手にした包みを、そっと石の根元へと供える。
しかし、その視線は、目の前にある粗末な石の肌に釘付けになっていた。
并州で武名を挙げ、一族を率いる兄の側室の墓としては、あまりにも貧相であった。文字すら刻まれない野の石が、ただ置かれているだけなのだ。
董旻の怪訝な視線に気づいたのか、背後に立つ仲穎が、低く地を走うような声を出した。
「……王渙の息がかかった役人や、周囲の豪族どもに、余計な邪推をされぬためには、これが限界だった。大々的に弔えば、我が家の隙を狙う奴らに、何を嗅ぎつけられるか分からんからな」
その一言で、董旻は兄が背負ってきた政治的危うさの重みを察した。結び目を解く指が、微かに震える。
「リア……。戻りましたよ」
声は低く、しかし驚くほどに澄んでいた。
膝の上に端座し、視線を墓標の冷たい肌へと注ぐ。
「都のムルが、これをあなたにと。何が入っているかは聞きませんでしたが、きっと、あなたが喜びそうな、都で一番上等な品です。受け取ってください」
董旻の脳裏に、かつてこの臨洮の邸で、共に過ごした少年時代の記憶が鮮やかによみがえる。
洛陽へ発つ前、まだ泥にまみれて走り回っていた自分を、いつも一歩引いたところから優しい眼差しで見守り、傷の手当てをしてくれた年上の彼女。
兄の妻となる前の、ただ一人の温和な女性の面影が、いまや冷たい土の下に埋もれてしまったという冷酷な現実が、董旻の胸中を黒い炎となって焦がしていく。
「病死などと、信じ込まされていた己の暗愚が、何よりも呪わしい。洛陽で書物を開き、聖賢の言葉を諳んじている間に、私は、最も大切な友の声を、その危機を、何一つ聞き届けることができなかった……」
語りかける言葉は静かだが、言葉の端々に、身を削るような悔恨と憤怒が滲む。
董旻はゆっくりと立ち上がった。
振り返ったその眼差しの奥には、洛陽へ発つ前にはなかった、冷徹なまでの決意が宿っている。董旻は乱れた衣服を小さく正すと、正面から兄を見据え、董家の次男としての覚悟を突きつけた。
「義父上の不義を暴いた兄上の差配に、異論はありません。ですが、これ以上の欺瞞は董家を滅します。兄上、この墓前で教えてください。処分を終えたという王渙は今、どこにいるのですか。あの老人に対し、兄上は具体的にいかなる処断を下されたのですか」
風が、二人の兄弟の衣を激しく揺らした。
仲穎は、弟の問いを正面から受け止め、ただ静かに、その頑なな双眸を見つめ返した。
「王渙は、すでにこの世にはいない。俺がこの手で、義父上を弓で射殺した」
冷徹な事実が、墓前に響いた。
「不義の証拠をすべて揃え、臨洮の文官たちへ引き渡してな。しかるべき公の手続きを以て、罪人としての処分はすべて終えている。だが、旻……」
董旻は息を呑んだ。
罷免や幽閉ではなく、大恩ある太守の命が、兄の放った強弓によって直々に絶たれている。その事実の重みに、董旻は墓標から目を離し、兄の硬質な佇まいを凝視した。
「……すでに、処断されたのですか。公の法に則って」
「そうだ。リアを殺した刺客の背後に奴がいた。都への転属を望み、宦官への献金のために我が境域の富を掠め取ろうとする者を、生かしておく理由はどこにもない。だが、奴の息の根を止めても、リアは戻らん。傷を負った我が家は、これからこの涼州で、より険しい茨の道を歩むことになる。お前が洛陽で得ようとしている郷挙里選の推薦も、あるいは泥を被ることになるやもしれん」
仲穎の言葉には、復讐を遂げた達成感などは微塵もなかった。ただ、一族を背負う長男としての、現実的な危機感だけが宿っている。
董旻は、肩に置かれた兄の手の重みを感じながら、ゆっくりと己の拳を握り直した。
「……実父を亡くした私どもを、第二の父親としてあれほど気にかけてくださった方が、なぜ、都の妄執に狂わされたのか。兄上、私は、学問や名声を隠れ蓑にして不義が見過ごされる世を、決して許しません。私のやり方で、この董家の力を、正しき理を、天下へと知らしめてみせます。私は必ず、我が家を支える官の力を手に入れます。リアの墓前で、そう誓います」
風がやみ、裏山に一瞬の静寂が訪れる。
二人の兄弟は、真新しい墓標の向こうに広がる涼州の荒涼とした大地を、ただ静かに見つめていた。
邸内には、蝋燭の灯火が静かに揺れていた。
大恩ある太守でありながら、その不義の果てに仲穎の弓に倒れた王渙が罪人として葬り去られてから、すでにそれなりの時が流れている。その後、仲穎は一族を背負って并州の張奐将軍のもとへ仕官し、過酷な戦場へと身を投じていた。
衣服に染みついた并州の戦塵と、裏山の墓前の泥を綺麗に洗い流した仲穎は、重い足取りで奥の間への敷居を跨いだ。
部屋の奥では、正妻の王綏が、我が子を抱いて静かに端座している。
夫が戦場に赴いている間、この臨洮の邸を守り、孤独に真新しい命を育んできた彼女の佇まいには、董家の正妻としての強固な覚悟が宿っていた。
仲穎は何も言わず、妻の傍らへと歩み寄った。
王綏の腕の中にいるのは、夫の不在の間に産声を上げ、涼州の乾いた空気にすっかり馴染んだ、小さな男児である。
最前線で指揮を執り続けていた仲穎にとって、我が子をその腕に抱くのは、これが初めてのことであった。
王綏は、戦場をくぐり抜けてきた夫の凍てついた双眸を恐れることなく、そっと我が子を差し出した。
仲穎の、無数の刀傷が刻まれた大きな両手が、壊れ物を扱うように赤子の身体を受け止める。
抱き上げられた赤子は、父親の衣から漂う微かな鉄の匂いに驚いたのか、細い産声を上げた。
仲穎はその産声を静かに聞きながら、我が子の小さな額を見つめた。同じ臨洮の土着の豪族である李氏と董氏の血を引き、この過酷な時代に産み落とされた、純然たる我が子であった。
「……これからの涼州は、いや、この天下は、いよいよ茨の道となる」
地を這うような仲穎の声が、部屋の静寂に響く。
「王渙という後ろ盾を失った我が家は、周囲の豪族や役人どもの敵意のただ中に立たされている。俺が并州でいくら武名を挙げようとも、奴らは隙を狙って我が家を追い落とそうとするだろう。だが、董家の血を引く男児であるならば、そのすべての重荷を、一族の宿命を、背負って立つ器であらねばならん」
仲穎は我が子を抱き直し、その小さな胸に、一族の未来を託す重い文字を刻みつけるように口を開いた。
「承だ。この子の名は、承とする」
王綏が、静かに頭を下げた。
「董家の命脈を、そしてこの涼州の正しき理を、いかなる泥にまみれようとも次代へ正しく受け継ぐ。その覚悟を、この名に込める。承、董家の長たる俺の言葉を、その胸に刻んで生きよ」
仲穎の言葉に応じるように、赤子は小さな拳をぎゅっと握りしめ、再び高い声で泣いた。それは、董家が過酷な時代のただ中で手に入れた、新しき光の産声であった。
その力強い泣き声は、壁を隔てた隣の間で、洛陽への再出発の身支度を整えていた董旻の耳にも、確かに届いていた。
――夜が更け、邸内の騒めきが静まり返る頃。
董旻の部屋の卓には、簡素な酒肴と、二つの土器の盃が置かれていた。
対座しているのは、臨洮の役場での軍務をすべて片付け、夜遅くに邸へ戻ってきた李儒である。
董旻の指先は、洛陽の学舎で筆を握り続けてきた、白く綺麗なままであった。
対する李儒の指先は、一歳年下であるにもかかわらず、并州の戦塵に荒れ、馬の手綱を握り、血の滲んだ木簡に数字を書き込んできた、武の気配を濃厚にまとっている。
董旻は、その手の違いに、目の前の若者がすでに兄の片腕として修羅場をくぐり抜けてきた職歴の重みを静かに感じていた。
董旻は衣服を正し、丁寧に盃を傾けて李儒へ酒を注いだ。
「李儒殿。役場での事務、お疲れ様でした。明朝、私は再び洛陽へ向けて旅立ちます。その前に、どうしてもあなたと、一献交わしたかったのです」
李儒は差し出された盃を両手で受け止め、一歩引いた礼を保ちながら、静かに口を開いた。
「董旻殿。私のような者が、洛陽の公府を目指すあなたに差し挟む言葉などありません。ですが、どうしてもとおっしゃるならば……書物には書かれていない、都の汚泥の啜り方をお話しいたしましょう」
李儒の声は低く、そして冷徹であった。
彼は盃を干すと、その荒れた指先で卓の角を小さく叩いた。
「私の戦場は分かりやすい。敵の弓矢を防ぎ、兵糧の数を合わせるだけです。しかし、董旻殿が向かう洛陽は、笑顔の裏で人が死ぬ。どうか、名士たちの高潔な言葉や、宦官どもの甘い蜜に騙されないでください。彼らは、書類一枚、口舌一つで、前線にいる仲穎殿の首を飛ばすことができる」
董旻はその言葉の重みを、真っ直ぐに受け止めた。
かつては王渙の優しさを信じ、学問の理想だけを追っていた己がいかに世間知らずであったか。兄が背負う政治的孤立の深さを知った今、その警告は痛烈に胸に刺さる。
「……承知しています」
董旻は己の盃を見つめ、低く、しかし凛とした声で応じた。
「兄上が前線で命を懸け、あなたがその足元を支えるならば、私は都のただ中に入り込み、我が家が背後から撃たれぬよう、制度の盾となるつもりです。どれほど泥にまみれようとも、必ずや、我が家を支える官吏の力を手に入れてみせます」
李儒は、董旻のその頑なな決意が宿る佇まいを、静かに見つめ返した。
もう二度と、こうして二人で盃を交わす機会はないかもしれない。戦場に随行する文官と、朝廷の奥深くで内政を司る官吏。進むべき戦場が完全に分かれたことを、二人は互いに確信していた。
李儒は小さく、しかし確かな敬意を込めて頭を下げた。
「……あなたのその綺麗な手が、都の墨で黒く染まる日を、心待ちにしております。董家の背後は、洛陽のあなたに託しました」
「ええ。兄上のことは、あなたに託します」
二人は最後の盃を干し、短い一礼を交わした。
開け放たれた窓の向こうには、涼州の荒涼とした、しかし夜明けを待つ静かな大地がどこまでも広がっていた。




