第六十八回(西暦169年)
【 建寧二年(百六十九年)春 】
并州の春は、肌を刺すような砂混じりの風と共にやってくる。
簡素な作りの幕舎の中、董仲穎は、無言で一本の鉄鉾を磨き上げていた。その硬質で寡黙な佇まいは、最前線の兵たちに言葉以上の規律を植え付けている。しかし、その懐には、臨洮の邸から届いたばかりの書状が大切に収められていた。
正妻の王綏が無事に嫡男を産んだという吉報。その文字を目にした時、仲穎の引き締まった武人の顔に、一瞬だけ、父親としての心からの、実直な笑顔が浮かんだ。だが、彼が視線を上げたときには、その温もりはすでに消え失せ、冷徹な現実主義者の眼へと戻っていた。
「……仲穎殿、都からの定期の便が届いております」
静かに幕舎へ入ってきたのは、主簿の李儒である。若き文官は、以前の生真面目な能吏の面影を残しつつも、仲穎の現場主義に触れたことで、その知性を確実に「謀略」へと研ぎ澄ませつつあった。
「……また、兵糧の遅延報告か。それとも書式の不備というやつか」
仲穎は鉾を磨く手を止めず、苦々しく、しかし静かに呟いた。上級役人の怠慢や形式主義のせいで、前線の兵たちが飢えに瀕する姿を何度も見てきた。だからこその若い叩き上げが抱く、中央への現実的な不信感だった。
「いえ、今回は一風変わった風聞が入っております。霊帝陛下のご下命により、洛陽では『熹平石経』なる儒教経典の石碑を刻む国家事業が始まったとか。蔡邕という当代随一の文人が大層もてはやされ、都の貴人どもはこぞってその拓本を求めて騒いでいるそうです」
李儒は、淡々とした口調で、まるで明日の天気でも伝えるかのようにその都の流行りを流した。
「石碑、か。……都の連中の文字を正す前に、ここの兵たちの腹を満たすのが先だと思うがな」
仲穎は短く息を吐き、磨き終えた鉄鉾の刃先を冷たく見つめた。都の華やかな文化など、最前線で血を流す兵を一人喰わせる米一粒ほどの価値もない。それが彼の、若き現場合理主義のすべてだった。
「ええ。我々がこうして砂を噛,み、異民族の動向に神経を尖らせている裏で、彼らは文字の校訂に熱を上げている。実に、優雅なことでございます」
李儒の細い目が、冷ややかに細められる。
「都の戯言はいい。それより、北の動きは」
「はっ。南匈奴の内部で、本格的な亀裂が生じております」
李儒は手元の簡素な布地図を広げた。
「漢王朝への臣従をよしとせず、挙兵を目論む強硬派の一派……代々『劉猛』の武名を襲名する過激派の頭領が、ついに動き出しました。彼らの狙いは、漢との協調を唱える親漢派の有力者、羌渠の暗殺です」
「羌渠か。あの実直な男が死ねば、并州の国境線は一気に火の海になるな。国境を守る俺たちの兵の血が無駄に流れる」
「その通りです。劉猛一派の軍勢は、すでに羌渠の営を包囲しつつある模様。羌渠は一族諸共、袋の鼠となっておるようです。……仲穎殿、これは好機です」
李儒の声音に、昏い知性が宿る。
「羌渠をただ助けるのではありません。劉猛という匈奴の象徴を我々の力で叩き潰し、羌渠の部族には骨の髄まで『漢の董仲穎』への恐怖と、決して返せぬ巨大な命の貸しを植え付ける。彼らを、我々の『猟犬』にするのです」
仲穎は立ち上がり、鉄鉾を握り直した。その瞳には、家族を、そして信じてついてくる兵たちを守り抜くためなら、いかなる冷酷な手段も辞さないという、年相応の歪みなき覚悟が宿っている。
「……出るぞ。李儒、手はず通りに兵を動かせ」
「御意。劉猛の名、ここで一度、完膚なきまでに叩き割ってご覧にいれましょう」
乾いた并州の風が幕舎の垂れ幕を激しく揺らす中、二人の若き怪物は、冷徹な計算と共に北の荒野へと出陣した。
荒野を覆う怒号と、容赦なく降り注ぐ矢の雨。
「羌渠! お前の甘さが一族を滅ぼすのだ! 漢の犬となり下がった腑抜けに、単于(王)を名乗る資格などない!」
数倍の軍勢を率い、狂ったように迫るのが匈奴強硬派の頭領、劉猛であった。その手にする湾刀はすでに幾人もの同胞の血で濡れている。対する親漢派の部族長・羌渠は、手負いの身で必死に得物を振るうが、防戦一方であった。背後の天幕には、怯えながらも父の背を見つめる、一人の幼子が深く潜んでいた。
「ここまでか……」
激しい猛攻の衝撃に、羌渠が大地に膝をついたその瞬間、天を割るような重低音の地鳴りが響いた。
劉猛の兵たちが一瞬、動きを止める。
地平線の彼方から、砂塵を巻き上げて突撃してくる影があった。漢軍の騎馬隊。その先頭を駆けるのは、一振りの重い鉄鉾を構えた董仲穎である。
「漢軍の……小勢だと!? 叩き潰せ!」
劉猛の放った騎兵が迎撃に動く。しかし、仲穎の突撃は、彼らの予測を遥かに超える速度と質量を持っていた。
「退け」
仲穎の放った一撃は、迎え撃った匈奴兵の盾を木端微塵に砕き、その肉体ごと馬背から叩き落とした。返り血を浴びても、仲穎の引き締まった顔には微塵の動揺もない。ただ冷徹に、最短距離で敵の首魁へと直進する。その圧倒的な個の武勇に、劉猛の軍勢は恐怖で割れた。
「何者だ、貴様は!」
劉猛が叫ぶ。仲穎は名乗ることもせず、ただ凄絶なまでの踏み込みで鉄鉾を突き出した。劉猛は辛うじて湾刀で受け止めるが、肉が軋むほどの怪力に圧し潰され、馬ごと側方に転倒する。
「頭領!」
「退け、引くのだ!」
圧倒的な武の体現者を引き連れた漢軍を前に、劉猛の兵たちは恐慌をきたし、負傷した頭領を抱えて蜘蛛の子を散らすように敗走していった。
静まり返った荒野。
仲穎は息一つ乱さず、馬から下りると、呆然と佇む羌渠の前に歩み寄った。その強大すぎる背中を、天幕の隙間から、一人の幼き少年が、畏怖に満ちた瞳で凝視していた。
飛び散った鮮血が、并州の乾いた砂に吸い込まれていく。
「……一族諸共、命を繋ぎ止めることができた。漢の、気高き将よ。危ういところを救い大恩、決して忘れぬ」
南匈奴の有力者である羌渠は、傷口を押さえながら深々と頭を下げた。実直な彼にとって、漢王朝への臣従は偽らざる本心であり、その漢の軍勢に命を救われたことへの感謝は本物であった。同時に、目の前で仁王立ちする若き漢将の、常軌を逸した武勇への畏怖が全身を支配していた。
「どうか、我が一族を救ってくださった、その尊名をお聞かせいただきたい」
羌渠の懇願に対し、仲穎は鉄鉾に付着した血を無言で振り払うと、その硬質な眼差しを羌渠へと向けた。年相応の若い武官としての佇まいは、名誉欲とは無縁の、現場を知る者特有の冷徹さに満ちている。
「……名乗るほどの者ではございません。羌渠殿、あなたがここで倒れれば、国境は一気に荒れます。私はただ、この地を守る我が兵たちの血が、無駄に流れるのを防ぎたかっただけです」
相手の立場を重んじつつも、一切のおもねりのない仲穎の実直な言葉。その裏にある若き「現場合理主義」の芯の強さを、羌渠は肌で感じ取り、なおさらこの底知れぬ若き将への畏怖を深めた。主人が自身の名を語るのを控えたため、一歩背後に控えていた主簿の李儒が、静かに進み出て羌渠へと言える言葉を掛けた。
「我が主の御名は、董仲穎。并州の前線を預かる武官にございます」
「董、仲穎殿……」
羌渠はその名を口の中で繰り返し、深く胸に刻み込んだ。そこへ、李儒が穏やかな微笑を浮かべながら、さらに一歩歩み寄る。その細い目の奥には、昏い知略がぎらぎらと渦巻いていた。
「――羌渠殿。我が主への感謝、誠に深く染み入ります。お命をお救いしたこと、漢と匈奴の平穏のためなれば当然のこと。しかし……ただの情けのみで劉猛を退けたわけではございませぬ」
李儒の声音が、ふっと低くなる。文官らしい丁寧な口調でありながら、その内容は確実に今後の平穏と実利を握り合うためのものであった。
「劉猛は退きましたが、襲名制の彼らは必ず再び牙を剥くでしょう。羌渠殿、あなた方がこの并州で生き残るには、我が主、董仲穎の力が今後も不可欠のはず。……そこで、羌渠殿。一つ、我らと平穏の約束を交わしていただきたいのです」
「約束、だと? どのようなことだ」
羌渠が身を硬くする。李儒は慇懃な態度を崩さぬまま、穏やかに言った。
「将来、我が主や我らが何か大きな困りごとを抱えた際、あるいはあなた方の手を借りたい折には……国境や漢のしがらみを超えて、真っ先に我らに力を貸していただきたいのです。ただ、それだけのご助力をお願いしたい」
「我らの手を、か……。董仲穎殿に救われたこの命、その程度のことであれば安いもの。あなた方が困り果てたその時には、我が一族、無条件でその盾となり手足となって必ずやお助けいたしましょう。我が代、そして息子の代になろうとも、その約束は違えぬ」
羌渠は快くその約束を呑んだ。
李儒の心のうちにあるのもまた、あくまで「朝廷が兵糧や兵を宛てにできない以上、目の前の前線を維持するために、異民族との間に独自の強固な協力関係を築いておく」という、極めて地続きの現場合理主義にすぎなかった。中央の官僚たちが書類仕事に追われる裏で、前線の平穏を守るための現実的な手札を一枚増やしたにすぎない。
その時、羌渠の背後にあった天幕の垂れ幕が小さく揺れた。
中から放り出てきたのは、まだ十代にも満たない幼き少年であった。羌渠は少年の肩を抱き寄せると、仲穎に向かって小さく頭を下げさせた。
「私の息子……呼廚泉にございます」
仲穎の視線が、一瞬だけその呼廚泉へと落ちる。
その脳裏に、臨洮の邸で生まれたばかりの我が子の顔がよぎった。静かな空気を見守っていた冷徹な眼が、ほんの刹那、家族を想う実直な武人の優しさに緩む。仲穎は呼廚泉の手元へ歩み寄ると、腰の帯から干し肉の塊を一つ取り出し、少年の小さな手のひらに無言で握らせた。
少年の小さな指が、干し肉をしっかりと握りしめる。少年は、自分に巨大な影を落とする漢将を真っ直ぐに仰ぎ見ると、まだ幼いながらも、凛とした、通る声で応じた。
「……漢の、将軍様。我が父を、そして我らの一族を救ってくださり、誠にありがとうございました。この御恩、私は生涯、忘れません」
たどたどしくも、一族の次代を担う者としての気品と、揺るぎない芯の強さを感じさせる、実直な感謝の言葉であった。
仲穎は少年の言葉を無言で受け止めると、ただ一度、満足そうに短く頷いた。その脳裏には、敵を一撃で粉塵に砕いた圧倒的な武の記憶と、今自らの言葉で誓った感謝の重みが、生涯消えぬ畏敬と確かな紐帯として刻まれることとなった。
并州の凍てつく戦場から遥か遠く、涼州の臨洮にある董卓邸には、穏やかな秋の陽光が降り注いでいた。
ガラガラと小気味よい音を立てて、一台の荷馬車が邸の門をくぐる。
馬車の綱を握り、邸へと戻ってきたのは、侍女頭の木蓮であった。彼女のすぐ傍らでは、戦傷のために戦場を走れなくなり、現在は買い出しの馬車を引いて日常を支えている赤毛の愛馬・ザルマが、穏やかに歩みを進めている。
そのザルマの広い背中には、5歳になった華児がちょこんと乗せられていた。木蓮に小さな体を優しく支えられながら、華児は高い目線が嬉しいのか、手足をばたつかせて楽しそうに声を上げている。
「木蓮さん、お帰りなさい。……買い出し、すみません」
邸の玄関先で丁寧な一礼と共に出迎えたのは、右目と左腕を失い、現在は邸で療養中の良であった。まだ傷の癒えきらぬ細い体で深く頭を下げ、木蓮に苦労をかけていることへの申し訳なさを、その寡黙な短い言葉に滲ませていた。
「いいえ、良さん。気にしないでください。ザルマがよく働いてくれましたから」
木蓮が優しく微笑み、ザルマの背から華児をそっと抱き下ろす。
その時も、邸の裏手からは、規則正しい木剣の風切り音が絶え間なく響いていた。訓練場では、若い羌族の隊長・ルカが、今日も基本の型を何度も実直に繰り返している。その指導は簡潔で厳格そのもの。実戦で使う特有の技は、今はまだ誰にも一切明かさず、ひた隠しにしたまま、表向きは愚直な剣の指導に徹していた。
「木蓮、良。おかえりなさい」
邸の奥から、静かに姿を現したのは主母である王綏であった。彼女は、先月、凄まじい覚悟と共に仲穎の嫡男を出産したばかりであったが、その佇まいには芯の通った強さがあった。
王綏の姿を認め、良がすぐさま深く頭を下げて控える中、木蓮が慌てて歩み寄った。
「奥様、お体に障ります。どうかお部屋で温かくしていてください」
心から王綏の身を案じる木蓮の言葉に、裏手の音に気づいて訓練を切り上げたルカも歩み寄り、「奥方様、内政は木蓮から共有を受けております。私兵の備えも万全です。いつ仲穎様から命があっても動けます」と、簡潔に一礼した。
王綏は我が子を愛おしそうに抱き上げながら、微笑み、しかし少しだけ翳りのある表情で言った。
「ありがとう、みんな。……ただ、少し気になるのです。都の叔穎(董旻)からの便りが、近頃めっきり途絶えがちで」
24歳になる董旻は、現在、洛陽で官吏登用の推薦を得るため、寝る間も惜しんで学問に励み、都の名士たちとの人脈作りに奔走している。その前向きな奮闘を木蓮から共有されていたルカや良も、都の厳しい情勢を案じ、小さく表情を曇らせた。
「奥様、奥様! 都から……叔穎様からの定期の便が今、届きました!」
その時、邸の門から息を切らせた下男が、一本の竹簡を掲げて走ってきた。
待ち望んでいた董旻からの便りに、王綏の顔にパッと安堵の光が差す。木蓮がすぐにそれを受け取り、文字の読めない良やルカの代わりに、静かに紐を解いて中身を読み上げた。
「……叔穎様、都での名士たちへの挨拶回りと、学問の仕込みに、いよいよ一つの区切りがついたと。英気を養うためにも、近いうちに一度、臨洮の邸へ戻る、との通知にございます」
義弟の無事な報せに王綏が微笑んだのも束の間、文を追う木蓮の目が、ふっと哀切に揺れた。
「木蓮、どうしたのですか……?」
王綏の問いに、木蓮は竹簡をそっと胸に抱くようにして、静かに顔を上げた。
「叔穎様、文の結びに……こう書かれておられます。『リアが身罷られたとの報せ、都にて受け取りました。臨洮へ戻った折には、真っ先にその墓前へ向かい、幼き頃にいただいた大恩への感謝を伝え、静かにあの方に会いたい(墓参りしたい)と思います』と……」
木蓮の言葉に、王綏は切なく目を伏せた。
あの悲劇の際、深く傷つき混乱していた王綏が都へ送れたのは、葬儀を終えたという最低限の訃報のみ。
董旻はリアが亡くなった事実こそ知っているが、彼女が兄の側室となり、弦を遺し、 ...そして王渙の不正の裏で刺客の凶刃に倒れたという凄まじい内情は、何一つ知らされぬまま都で故郷を想っていたのだ。呼び捨てのまま綴られた「リア」という名に、かつて同じ家で無邪気に笑い合っていた頃の記憶がそのまま止まっていることが、痛いほど伝わってきた。
良は静かに目を閉じ、失った右目の奥に亡き人の面影を浮かべるようにして、深く頭を下げて控えた。ルカもまた、都と地方を隔てる距離の遠さと、これから戻る若き叔穎様が直面するであろう過酷な真実に、厳粛な面持ちで裏庭の空を仰いだ。
遠い都からの久方ぶりの便りは、変わらぬ温もりと、...そして故郷で待つあまりにも重い現実の足音を予感させるものであった。




