第七十二回
建寧二年(百六十九年)秋
臨洮の邸の奥深く、灯火に照らされた一室は、張り詰めた沈黙に満ちていた。
都の汚職を突く反撃の文を早馬で放ち、実弟の叔穎が洛陽へ向けて発った後も、残された者たちの戦いは終わらない。
卓の上には、これからの并州での前線における、次なる軍略の図が広げられていた。
回廊の先からは、一歳を迎えて健やかに育つ嫡男の微かな声と、それをあやす王綏の衣擦れの音が、静かに響いてきていた。
「これからの前線の戦い、敵の退路を断ち、兵糧ごと一網打尽にすべきでございます。残党も含め、一人の命も残す必要はありません」
李儒の声音は、冷徹な刃そのものであった。
不備を許さぬその足取りは一歩前へと進み、卓の上の図を指先で強く叩く。
不条理を力で捩じ伏せる正面突破の皆殺しの策。
それは、いかにも若き能吏らしい、無駄を削ぎ落とした合理の極みであった。
その隣で、武威郡出身の客分は、衣服の擦れる音さえ立てずに静かに佇んでいた。
賈詡は細い指先で自身の顎を軽く撫でると、一歩後ろへ退きながら、低く滑らかな声を発する。
「なにも我らの兵を動かして血を流す必要はございませぬ。先に放った文に怯え、都の官吏らが口封じに差し出してくるであろう裏金――その金の一部を、そのまま前線の敵の副将へ握らせれば足ります。己の身が可愛い者たちは、内から勝手に自滅いたしましょう」
中央の役人を脅し取った金で、前線の敵を内から崩す。
だが、腕を組み、開け放たれた庭へ背を向けたまま聞いていた仲穎の身体が、微かに鋭い気配を放った。
足取りを重く刻みながらゆっくりと振り返り、硬質な声音を客分へと向ける。
「都の、利に敏い方々が、そんな大金を素直に差し出すという確証はどこにある。ただの憶測に、俺の兵の命運は預けられんぞ」
その問いに対しても、賈詡の佇まいは揺るぎもしなかった。
懐から別の乾いた木簡を取り出し、卓の上へ静かに滑らせる。
「役人どもが王渙と交わした密貿易の帳簿、その裏写しでございます。彼らがこれを公にされれば、一族の破滅は免れませぬ。家名を惜しんで地位を失うか、金を差し出して身の安全を買い取るか。立場を重んじる都の方々に、三つ目の道など存在いたしません。必ずや、向こうから金を積んでまいります」
寸分の隙もない脅迫の裏付け。
二つの乾いた知性が、臨洮の部屋の気配を激しく火花散らせていた。
仲穎は静かに拳を握りしめる。
脳裏をよぎるのは、かつてこの邸で引き起こされた、先代太守・王渙による夜襲の記憶であった。
「第二の父」と慕った男を信じ、綺麗事を捨てきれなかった報いとして、最愛の側室と無二の親友を失った。
あの血の夜の記憶が、仲穎の背中を氷のように凍りつかせている。
都の失脚を恐れる者たちの欲を、そのまま前線の敵へ突き刺す冷徹な罠。
「……賈詡の策をとる」
地を這うような低い声が、部屋に響いた。
仲穎の巨躯が客分の前に歩み寄る。足取りには、一切の躊躇いもなかった。
「俺の放つ矢の、最も鋭い鏃になれ」
その言葉を受け、賈詡は僅かに身を震わせる。
沈黙の後、最年長の客分は、衣服の音を深く響かせながら、床へ向かって深く、深く跪いた。
勝ち馬の背を見定め、その身をすべて預ける正式な臣下としての礼であった。
◇
それから、幾月かの時が流れた。
夏に実弟の叔穎が都へ向けて旅立ってから、臨洮の邸を取り巻く風は、いつしか冷涼な秋のそれへと移り変わっていた。仲穎が、ただの客分に過ぎぬ賈詡の並外れた実力を見込み、いずれ并州での戦いにてその才を試さんとしばし時を待つ間にも、董旻を乗せた馬車は関中平原を遥か東へと進み続けていたのである。
実りの季節が深まったある日の夕暮れ、回廊からようやく、待ち侘びたせわしない足取りが近づいてきた。
并州からの伝令ではない。都へと到達した董旻が、わずか十日ほど前に洛陽の宿舎でしたため、そこから夜を徹して西へと駆け抜けた私兵がもたらした、旅塵の気配であった。
差し出された一通の文を、仲穎は自らの逞しい手で受け取り、灯火の近くで静かに封を解いた。
生真面目な墨跡を目で追っていた仲穎は、やがてそれを、隣に佇む李儒へと手渡した。都の時勢が記されたその中身を、その場にいる文官たちにも共有すべきだと判断したのである。李儒が恭しくそれを受け取って読み上げ、さらにその木簡は、客分である賈詡の手元へと静かに回されていった。
董旻が一貫して崩さぬ丁寧な言葉遣いが、そのまま文字となって彼らの間を流れてゆく。
『兄上、拝啓いたします。
不肖の身ながら、無事に都へと到着いたしました。こちらで留守を預かってくれていたムルとも、無事に合流を果たしております。家を守り抜いてくれた彼女の健やかな佇まいに、まずは安堵いたしました。
しかしながら、街で耳にする洛陽の気配は深く澱んでおります。先に早馬で放たれた文は、確かにしかるべき官吏の懐へと届けられたようでございます。都の役人どもは、己の不正が暴かれるのを恐れ、互いの出方を伺いながら足元を震わせておるとの噂が聞こえてまいります。
また、先だって、曹操という名の若き役人が、権勢を誇る宦官の身内を容赦なく棒で打ち殺したという騒ぎがございました。法を以て一切の容赦をせぬその足取りに、都の風は激しく揺れておるようでございます。
我ら一族を制度の壁で守るため、この叔穎、どれほど泥にまみれようとも、必ずや官の権力を掴み取る所存でございます。何卒、御身を大切になさってください。』
一通り文が回ると、李儒は小さく鼻で息を突き、静かに佇まいを正した。
「法を以て押し通すその曹操という役人、なかなかに苛烈な男のようでございます。しかし、そのおかげで都の澱んだ水がかき回されれば、叔穎殿が間隙を縫って官位を掴む好機にもなり得ましょう」
その隣で、木簡を卓へと戻した賈詡は、衣服の擦れる音も立てずに滑らかな声を発する。
「役人どもが足元を震わせているのであれば、仕掛けた罠は十分に効いているようでございます。いずれ懐を痛めた腰抜けどもが、こちらへ向けて這いつくばってくる日も遠くはありますまい」
都から十日の時を越えて届いた、若造の骨のある振る舞いと、それを見据える幕僚たちの乾いた言葉を聞き、仲穎の背中が可笑しそうに僅かに揺れた。
◇
灯火に照らされた奥の一室から回廊へ出ると、臨洮の夜を渡る風は、すっかり冷涼な秋の匂いを孕んでいた。
邸の広大な中庭からは、并州の前線の張り詰めた空気とは異なる、しかし確かにこの地で生き抜こうとする家族たちの力強い生活の音が響いている。
中庭の端では、若きルカの鋭い声が響き渡っていた。
牛輔らが、溢れる汗を散らしながら、黙々と剣の基本の型を繰り返している。その乾いた木刀の重なる音を、少し離れた日陰からじっと見守る佇まいがあった。
先年の王渙の刺客による襲撃で、右目と左腕を失った良であった。肩の付け根から衣服が虚しく垂れているものの、その足取りは確かなものを取り戻しつつある。
隣に立つ侍女頭の木蓮が、水を入れた器をそっと差し出すと、良は残された右手でそれを受け取り、衣服を擦れさせて深く一礼した。
厩舎の方では、主を乗せて一時帰郷している愛馬トトが、静かに首を振っている。
その傍らには、あの夜襲の傷により戦場を退いた赤毛の牝馬、ザルマの姿があった。今や良の足代わりに荷馬車を引くなど、董家の日常を支える守り神となった牝馬に対し、トトはその大きな体躯をそっと寄り添わせ、労うように背を擦り合わせている。
「華児、お転婆が過ぎますよ。ザルマが困っているでしょう」
王綏の、静かだが揺るぎない声が中庭に響いた。
5歳になり、お転婆盛りの元気な足取りを見せる長女の華児が、ザルマの背に傷をつけぬよう、短い手足を必死に動かして這い上がろうとしていたのである。
すると、赤毛の牝馬はいたわるように低く鳴き、自らの大きな四肢をゆっくりと折って、地面へとその背を低く下ろした。幼い主が乗りやすいようにと、その身を丸めて待つ佇まいには、確かな慈しみが満ちている。華児が嬉しそうにその背へと小さな体を預けると、ザルマは衣服の擦れる音を立てる王綏の元へ、静かに歩み寄るのだった。
その様子を穏やかに伺う王綏の傍らには、亡き側室の遺児である3歳の弦児が静かに寄り添い、その腕には前年の冬に授かった嫡男、承が優しく抱かれていた。
王綏の腕の中で元気に小さな手足を動かし、承は力強い生命の息遣いを立てている。
幼き命を抱く主母の背中は、気高き覚悟に満ちていた。
いかに都の陰謀が渦巻こうとも、この臨洮の地で董家の血脈を確かに守り抜くという、揺るぎない暮らしの音がそこには満ちていた。




