第六回
アランがようやく自らの足で歩き、奥の間の廊下へ姿を現したのは、嵐の夜から二月が過ぎ、涼州の大地が夏の盛りに差し掛かった頃であった。
未だ顔色は白く、細くなったとはいえ、その佇まいはやはり西域の砂漠を生き抜いてきた誇り高き武芸者のそれであった。彼女は漢の言葉を解さぬため、その傍らには、すっかり董家の邸に馴染んだ十歳のリアがぴったりと付き従い、静かに影を落としている。
その日の夜、太守府の公務から一時の帰還を果たした父・董君雅を主に迎え、奥座敷にてささやかな祝宴の席が設けられた。
アランは座敷に入ると、漢の礼法ではなく、西域の武人が行うように、右の拳を左の手のひらで包み、深く頭を下げた。リアがすぐさま、その瑞々しい声で姉の言葉を漢語へと訳す。
「『董家の偉大なる主、董君雅殿。そして若き御方、仲穎。我が命を繋ぎ止め、妹を理不尽な暴虐から護ってくださったこと、このアラン、生涯忘れません。我が身に流れる血の最後の一滴まで、あなた方に捧げる覚悟です』……と言っています」
董君雅は、実直な公人としての厳しい面持ちを崩さぬまま、静かに盃を置いた。彼は西域の言葉を解する男である。リアの通訳を待つまでもなくアランの言葉の真意を汲み取り、自ら西域の言葉を口にして返した。
「――頭を上げられよ、アラン殿。我が董家は、天の理と信義を重んじる家風。命懸けで妹を護り抜いたあなたの義挙を前にして、手を差し伸べぬことこそが漢人の恥というもの。傷が癒えるまで、我が邸を己の故郷と思われよ」
父の口から放たれた滑らかな西域の言葉に、アランは驚きに目をみはり、やがてその厳格な武人の顔に、深い敬意の念を滲ませた。
その様子を、8歳の歳の仲穎は物静かに、開いた書物を膝に置いたまま誇らしげに見つめていた。正義を貫く実父の背中は、少年のお手本そのものである。隣では、6歳の董旻がまだ少しアランの背の高さに怯えつつも、市場で救ったあの子犬を膝に抱きながら、そっと姉妹の様子を窺っていた。
董君雅は再び漢語に戻り、仲穎へと視線を向けた。
「仲穎。お前が厳や叔、老医と共に、夜を徹してこの姉妹の命を繋ぎ止めたと聞いた。お前の取った行動は、我が董家の誇りである」
「いいえ、父上。僕はただ、父上の教えである『礼儀』と『誠実』に従い、目の前の小さき命を救おうとしたまでにすぎません。リアが言葉の懸け橋となってくれなければ、成し遂げられぬことでした」
仲穎は一礼し、生真面目で丁寧な口調で答えた。己の手柄を誇らず、ただ事実を理路整然と述べる息子の姿に、董君雅は孤独な胸の奥で、静かな満足感を覚えていた。
アランは、その仲穎の小さな体躯を、鋭くも温かい目で見つめていた。リアから、この少年がどれほど誠実に水を運び、枕元で祈り続けてくれたかを聞かされていたのだ。アランは厳の手を借りて奥の間から運ばせていた、極めて大ぶりな長櫃を開け、そこから布に包まれた武具を取り出した。
現れたのは、漢王朝のそれとは明らかに形の異なる、異国風の一張の強弓であった。
獣のしなやかな骨と、厳選された銘木を幾重にも組み合わせ、西域の猛烈な砂嵐をも貫く矢を放つために打たれた至高の兵器。その弦は太く、恐ろしいほどの反発力を秘めている。
アランはその強弓を、仲穎の前へと恭しく差し出した。
「『仲穎。これは我が故郷の鍛冶が打った、砂漠の猛禽を落とすための強弓です。あなたの体躯では、まだその弦を僅かに引くことすら叶わないでしょう。ですが、天があなたに授けし素晴らしい骨格はいずれ、この弓を玩具のように扱い、戦場を駆ける偉大な武人のものへと育つはずです。我が至誠の証として、これをあなたに託します』」
リアの通訳を聞きながら、仲穎はその漆黒の強弓を両手で受け取った。ずしりと腕に沈み込む、恐るべき重量と兵器としての冷徹な熱量。確かに今の仲穎の細い腕では、矢をつがえることすらできない。しかし、少年の生真面目な瞳に、かつてないほど激しい、武を志す男としての熱い炎が灯った。
「忝く存じます、アランさん」
仲穎は弓を抱きかかえるようにして、深く一礼した。
「今はまだ無力な僕ですが、必ずやこの弓に恥じぬ大器へと己を鍛え上げます。そして、リアとお姉さんを、この国境のあらゆる脅威から護り抜いてみせます」
西域の誇り高き強弓を胸に抱く、漢の生真面目な少年。
いつかこの強力な武器を手に、血煙の戦場を縦横無尽に駆ける姿が、この和やかな座敷の片隅で、静かに、しかし確かに産声を上げていた。
それから数年の時が流れ、少年たちはそれぞれの野生を、そして運命の嵐をその身に宿しながら、大きく成長していくこととなる。




