第六十四回(西暦167年)
延熹十年(百六十七年) 。涼州臨洮の秋は乾いた風と共に急ぎ足でやってきた。
涼州臨洮街の外れにある名医の診療所。その奥まった一室に、漂う薬湯の苦い匂いの中に、男は横たわっていた。
良。
仲穎の幼馴染であり、董家を陰から支え続けた「絶対の盾」。
数日前の夜襲で負った傷は、あまりにも深かった。突き刺さるような西風が窓を叩く音だけが響く部屋で、良は寝台の上でぴくりとも動かない。右目には白い布が痛々しく巻かれ、かつて強弓を支えた左腕の袖は、肩の付け根から先が虚しく平らになっていた。
襲撃時に失ったのは肘から先だったが、傷口から入った毒と腐敗が腕を駆け上がったため、命を救うために肩の付け根から切り落とすしかなかったのだ。良は今も、激烈な術後の高熱に耐えながら、生死の境を彷徨っていた。
「良」
仲穎は静かに、その枕元に歩み寄った。
その顔に、あの冷徹なる『骸隻の面』はない。友の身を案じる一人の若者の顔だった。
仲穎は大きく、肉厚な手を伸ばし、良の残された右手をそっと握りしめた。冷え切った友の肌から、微かな、しかし確かに刻まれる脈動が伝わってくる。
「俺は并州へ行く。張奐将軍から『軍司馬』の命が下った」
良の瞼は閉じられたままだ。返事はない。だが、仲穎は語りかけ続けた。
「リアも、ガルも逝った。董家を狙った糞泥どもは、この手で一人残らず引き絞って殺した。……だがな、良。お前が腕を根元から失くしてまで繋ぎ止めたその命、俺が絶対に無駄にはさせん。荒野の長老が言った。『大を活かすために小を捨てる』のが掟だとな。だが俺は、お前を絶対に捨てん。お前が目覚めた時、俺がもっと大きな男になって、お前を迎えに来てやる。だから、死ぬな。生きて、俺の盾に戻れ」
握った手に力を込める。
良の指先が、ほんの僅かに、仲穎の掌を押し返したような気がした。仲穎はふっと口元を緩めると、未練を断ち切るように手を離し、部屋を後にした。
◇
その日の深夜、董家の奥の寝室。
旅立ちの身支度をすべて終えた仲穎は、正妻・王綏と二人きりで対峙していた。
卓上には、一本の蝋燭が静かに灯っている。
王綏は、凛とした佇まいで座っていた。亡きリアの遺児・弦児を昼間ずっとあやしていた疲れも見せず、その瞳は百合のように気高く、澄んでいる。
「あなた」
王綏が静かに口を開いた。
「并州への御赴任、お供できぬこと、どうかお許しください。漢の法、そしてこの臨洮を護るため、私はここに残ります」
「分かっている。綏」
仲穎は頷いた。
「俺のいない董家を、お前に任せる。ガルが遺した羌族の戦士ども、それから華児と弦児……すべてお前の双肩にかかる。苦労をかけるな」
「いいえ」
王綏は小さく首を振った。その細い手が、仲穎の逞しい胸元に触れる。
「私はあなたの正妻です。王渙の養女として学んだ知恵も、この命も、すべて董家を天下に轟かせるために使います。あなたはただ、前線で、誰よりも強くあってください」
仲穎の胸の奥で、熱い塊が爆ぜた。
リアを失った喪失感、ガルを死なせた悔恨、臨洮でのすべての血の記憶。それらを包み込むような、王綏の揺るぎない覚悟。
仲穎は王綏の細い腰を引き寄せ、その唇を強く塞いだ。
蝋燭の火が吹き消され、闇の中で二人の呼吸が重なる。
これは、単なる惜別の情ではない。
これから地獄のような戦場へ赴く男と、その帰るべき家を護る女が、互いの魂に刻み込む『誓い』の儀式だった。
仲穎は野生の獣の如く、しかしどこまでも愛おしそうに王綏の身体を貪った。王綏もまた、夫の背中に爪を立て、その熱をすべて己の胎内に受け止めようと応じた。
(俺の血を、この女に遺す――)
孤独な単身赴任を前に、仲穎は董家の未来となる『新たな命』の種を、正妻の身体深くへと、確かに注ぎ込んだ。




