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第六十五回(西暦167~168年)

永康元年(西暦百六十七年)晩秋

臨洮から北東へ数百里。

汗血馬トトを駆る仲穎の前に広がったのは、故郷の涼州とは似て非なる、どこまでも平坦で殺風景な并州へいしゅうの大地であった。


国境沿いに位置する「護匈奴中郎将ごきょうどちゅうろうしょう」の本営には、幾百もの軍幕が地平線まで整然と並んでいた。涼州の兵が放つ泥臭い野気とは異なり、ここに集う兵らは中央の厳格な規律に統制され、冷え切った鋭い鉄の匂いを放っている。


その中心に座する、一際巨大な総司令官の幕舎。


董仲穎は、兜を脇に抱え、仮面を外した素顔でその床を踏みしめていた。


正面の床座に腰を下ろしているのは、後漢屈指の名将であり、かつて最前線の一兵卒にすぎなかった仲穎の武勇を直々に見出した恩人――老将・張奐ちょうかんであった。


その髪や髭は白一色に染まっている。しかし、衣服の上からでも分かる頑健な骨躯と、すべてを見通すような深く鋭い眼光は、少しも衰えていない。


漢安(かんあん)生まれの若造が、ずいぶんと凄まじい面構えになったものだな。董仲穎」

張奐の低く重い声が、幕舎の天井を震わせる。


仲穎は一歩前へ出ると、深く頭を下げ、朗々と声を響かせた。

「元一兵卒の董仲穎、張奐将軍の御召しに応じ、ただいま到着いたしました。これよりは『軍司馬(副官)』として、将軍の矛となり盾となり、武功を尽くす所存です」


張奐は、じっと仲穎の顔を見つめた。

ただの若手の抜擢ではない。都の文官・王渙の汚職を暴き、その私兵の夜襲を返り討ちにし、さらには王渙本人を公務中の正当防衛として射殺したという、臨洮での「恐るべき新星」の噂は、すでにこの并州の本営にも届いていた。


「……仲穎よ。お前の武勇と智略、疑う余地はない。だからこそ、尹端いんたんと並ぶ我が副官に据えた。だがな」

張奐は目を細め、静かに、しかし絶対的な圧迫感を放ちながら言った。


「お前の眼の奥にあるものは何だ。それは漢王朝への忠義か。それとも、すべてを喰らい尽くそうとする獣の野心か」


幕舎の中が、張り詰めた沈黙に支配される。


仲穎の背中に、冷たい汗が流れた。さすがは数々の修羅場をくぐり抜けた巨星。仮面を被っていなくとも、自分の奥底に芽生えつつある「荒野の掟(大を活かすために小を捨てる魔王の片鱗)」を、その鋭い眼力で見抜こうとしている。


だが、仲穎は怯まなかった。ふっと不敵な笑みをその野性味溢れる顔に浮かべ、真っ直ぐに張奐の眼を見返した。

「将軍。私の眼にあるのは、ただ一つ。『敵を一人残らず屠る』という飢えにございます。それが漢のためになるか、私の野心になるか――この并州の戦場でお見せいたしましょう」


張奐は一瞬、呆気に取られたように目を見開いたが、やがて低く笑い声を漏らした。

「ふん、相変わらず不遜な男よ。……よかろう。その飢え、すぐに満たさせてやる。物見からの報告だ。并州の国境沿い、羌族きょうぞくの不穏な動きが急激に増している。この冬、大きな嵐が来るぞ」

老将の言葉を肯定するように、幕舎の外で冷たい北風がゴウと鳴り響いた。


永康元年(西暦百六十七年) 冬

并州へいしゅうの国境は、容赦なき大雪と寒波に包まれていた。地平線まで白く染まった極寒の荒野で、ついに正史の歯車が激しく回り出す。


并州のきょう族、およびそれに同調した諸部族が一斉に蜂起。その数は数万に膨れ上がり、漢の辺境の集落を次々と襲撃し始めた。


総司令官・張奐の命により、軍司馬・董仲穎は、同僚の尹端と共にそれぞれ数千の兵を率いて出陣。これがいわゆる『并州・羌族反乱の平定戦』の幕開けである。



数日後、吹き荒ぶ雪混じりの風の中。仲穎の部隊は、敵の有力部族が陣を張る渓谷で、激しい乱戦の渦中にあった。


愛馬トトの背の上で、仲穎はいつものように木彫りの仮面――『骸隻(がいせき)の面』を着用し、冷徹無比な指揮で羌族を圧倒していた。


だが、敵も捨て身だった。


不意に、雪煙の向こうから、手傷を負った敵の屈強な部族長が、決死の形相で跳躍してきた。手にした大斧が、トトのいななきと共に、仲穎の頭上へと振り下ろされる。


「死ねッ! 漢の犬めが!」

仲穎は辛うじて身をよじり、強弓『骨喰』の弓幹でそれを受け止めた。しかし、凄使まじい衝撃と共に、大斧の刃先が仲穎の顔面をかすめる。


パキン――ッ!


乾いた音を立てて、木彫りの仮面が真っ二つに叩き割られ、雪原へと弾け飛んだ。


「将軍の仮面が外れたぞ!」と、周囲の漢兵たちが一瞬、動揺に凍りつく。

だが、仲穎の動きは止まらなかった。


仮面を失い、素顔を晒したその瞬間も、彼の瞳は驚くほど静まり返っていた。感情の揺らぎなど、一滴もない。


仲穎は即座に『骨喰』を放り出すと、腰の直刀を文字通り電光の如き速さで引き抜き、肉薄してきた部族長の首を一刀のもとに撥ね飛ばした。


「動くな。陣形を崩すな」

面を失った素顔のまま、仲穎は冷たく言い放つ。


「右翼、そのまま退路を塞げ。左翼は崖上から射掛け続けろ。一人も生かすな。首を挙げろ」

仮面という『演技装置』を失ったはずなのに、仲穎の脳は、冷徹な殲滅の最適解を弾き出し続けていた。


その声は凍りつき、表情は微動だにしない。指揮を執る若き董卓の姿は、漢兵たちにとっても、敵の羌族にとっても、仮面を被っている時以上に恐ろしい「怪物」そのものに見えた。



建寧けんねい元年 (百六十八年)晩冬

数ヶ月に及ぶ過酷な冬の戦いは、漢軍の圧倒的な勝利で幕を閉じた。


斬首・捕虜となった羌族は1万人を超え、并州の反乱は完全に鎮圧されたのである。


戦いが終わり、静まり返った赤黒い雪原。

仲穎はトトの上で、ふと自分の顔に手を当てた。そこには、何も遮るものはない。冷たい寒風が、直接その肌を叩いている。


仲穎は、足元に転がる真っ二つに割れた『骸隻の面』を拾い上げた。


これは亡き側室・リアが、かつて交易品として入手し、自分に贈ってくれたこの世に二つとない一品ものだ。


戦闘の最中、これが壊れて外れた時。自分はかつての友の同胞たちを、何の躊躇もなく、素顔のままで徹底的にすり潰していた。以前なら仮面を外した瞬間に押し寄せていたはずの、深い悔恨も、血の臭いに対する生々しい嫌悪感も、今の自分には全く湧いてこない。


仮面という道具を使い続けるうちに、いつしか仲穎の「地」の精神そのものが、魔王のそれへと完全に浸食され、同化していたのだ。


もはや、冷徹になるために仮面など必要なかった。

仲穎は割れた面の破片を、静かに、丁寧に布で包み込んだ。そして、それを鎧の胸元――己の心臓のすぐ近くへと仕舞い込んだ。


冷徹な怪物になり果てた男が、人間であった頃の最後の未練、そしてリアへの不器用な愛の証を、そこにだけは確かに残すかのように。



「董仲穎、見事な戦果であった。これなるは、朝廷よりお前に下された褒美の『きぬ百匹』である」

并州の本営。総司令官の幕舎。


張奐は並べられた見事な絹織物を前に、仲穎をねぎらった。

だが、その老将の眼光は、これまで以上に冷たく、鋭かった。戦場から戻った仲穎が、仮面を失っているにもかかわらず、あの『骸隻の面』を被っている時と全く同じ、冷酷で底知れない光をその瞳に宿していることに気づいたからだ。


(こいつは、もう人間の枠を超えておる。仮面などなくとも、すでに中身が化け物だ……)


張奐は本能的な恐怖を覚えていた。


かつての恩人である巨星から突き放されようとしていることも知らず、24歳となった董仲穎は、冷え切った素顔のまま、静かに絹の山を見つめていた。



并州へいしゅうの戦場から遥か西南。

雪を戴く嶺々に囲まれた涼州臨洮(りんとう)の董卓邸には、前線の血生臭さとは異なる、しかし確かに張り詰めた空気が流れていた。


「――左翼の踏み込みが甘い! それでは漢兵の長槍に懐を潜り込まれるぞ!」

寒風が吹き抜ける邸内の練兵場。


鋭い怒声を響かせているのは、亡きガルの意思を継いだ羌族の戦士たちを率いる、若き隊長ルカであった。


あの夜、空中分解しかけていた羌族の荒くれ者どもは、主母である王綏おうすいの揺るぎない覚悟と説得によって董家に留まり、いまや董家の私兵(のちの董卓軍の精鋭)として、漢兵の戦術を取り入れた過酷な訓練に励んでいる。泥を跳ね上げ、鉄器を打ち鳴らす男たちの熱気が、冬の冷気を切り裂いていた。


練兵場の隅では、一本の脚の腱を深く傷つけられ、戦場を駆ける力を失った赤毛の名馬ザルマが、ルカの部下に優しく手入れされていた。かつての激しさは影を潜め、今は董家の静かな守り神として、邸内の穏やかな日常に寄り添っている。


それを母屋の広縁から静かに見つめている影があった。

董家の主母・王綏である。


彼女の身体は、以前よりも明らかにふくよかになっていた。冬着の上からでもはっきりと分かるほどに大きく膨らんだそのお腹には、あの旅立ちの夜、仲穎が確かにその胎内へと注ぎ込んだ『新たな命』が宿っている。出産はもう間近に迫っていた。


「お嬢様。冷え込みが厳しくなってまいりました。どうぞ暖炉の間へ」

背後から、侍女頭の木蓮もくれんが静かに歩み寄り、王綏の肩に厚手の毛皮を掛けた。


木蓮の両腕には、すやすやと眠るリアの遺児・弦児げんじが抱かれている。その少し後ろでは、4歳になった長女の華児かじが、董家の従者たちの間をちょこまかと走り回って遊んでいた。ときおりザルマの足元へ駆けていっては、その太い脚に小さな手を伸ばしている。


「ありがとう、木蓮。……りょうの様子はどうですか?」


王綏は大きなお腹をそっと手で庇いながら、静かに尋ねた。


「はい。お医者様のおかげで高熱は完全に引き、今朝は少しだけ白粥を口にされました。まだお体に障るので寝台からは動けませんが、右目と左腕の傷も、順調に塞がりつつあります」

「そう、よかった……」

王綏は小さく息を吐き、再び練兵場へと視線を戻した。


右目と左腕の根元を失いながらも、死の淵から這い上がってきた絶対の盾・良。彼が生きていることが、今の董家の何よりの心の支えだった。


王綏は、愛おしそうに己の腹を撫でた。

前線にいる夫からは、并州の羌族反乱を「一万人以上を斬首・捕虜にして大勝利を収めた」という凄絶な報せが届いている。


手放しで喜ぶべき、あまりにも巨大な軍功。しかし、凛とした気高さで家を統率する王綏の脳裏には、ある静かな予感が過っていた。


(あなた。あまりに強すぎる光は、時に周囲の者を恐怖させ、遠ざけるものです……)


夫が戦場で『怪物』としての格を上げれば上げるほど、総司令官である張奐すらも、その底知れぬ冷徹さを警戒し始めるのではないか。


朝廷の冷遇が先か、夫の凱旋が先か。


そして、この腹の中にいる、董家の正統なる血脈が産声を上げるのはいつか。

「いかなる嵐が来ようとも。私はここで、あなたの帰る場所を護り続けます」

王綏は冬の曇天を見据えていた。

その胎内で、新たな命が力強く、ドクンと胎動を返した。


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