第六十一回
「……これより、この倉庫の全交易品、および汚職の全証拠を押収する」
仲穎の冷徹な命令が、静まり返った隠し倉庫に響き渡った。
怯えきった王渙の私兵たちを尻目に、仲穎は現場に駆けつけた臨洮の役人を呼び寄せる。それは、同じ町で長年、共に机を並べて臨洮の治安と政務を支え合ってきた「同僚」の役人であった。
仲穎は鉄面の奥から放たれる凄まじい威圧感を纏ったまま、リアが命を懸けて遺した血染めの帳簿、そしてたった今押収した王渙の不正物品のすべてを、無言で差し出した。
同僚の役人は、変わり果てた仲穎と、その足元に転がる王渙の遺体、そして血の滲んだ帳簿を交互に見つめ、全てを察したように深く痛ましげに息を吐いた。彼は怯えることなく、仲穎の肩にそっと手を置いた。
「……事情はすべて把握しております、仲穎殿。ご一族を襲った悲劇も、良さんの大怪我も。同じ臨洮に生きる者として、このような汚職を断じて許すわけにはまいりません。この証拠と押収品は、私が責任を持って公正に、一点の曇りもなく手続きを処理いたします。上層部へも『公務中の正当防衛』として正しく報告を上げます。ですから……どうかご安心ください」
役人は、仲穎の面の奥にあるであろう「血を吐くような悲しみ」を想んばかるように、静かに、しかし力強く頷いた。
「ここは私たちにお任せいただき、あなたは一刻も早くお戻りください。リア様やガル殿を、早く弔って差し上げねばならないでしょう」
「……かたじけない」
仮面の隙間から、かつての仲穎の生真面目な声が、一瞬だけ掠れて漏れた。
仲穎は即座に踵を返した。王渙の遺体にも、奪い返した莫大な財貨にも、もはや目もくれない。
(ガル、リア……。今、戻る)
仲穎はトトの背に飛び乗った。
「往くぞ、トト!」
トトが猛然と前脚を上げ、朝の陽光を浴びて激しく嘶く。赤い暴風が再び街道へと躍り出た。
隠し倉庫の街を飛び出し、周囲に誰もいない荒野の街道へと差し掛かったその時だった。
仲穎は、自らの顔を覆う鈍色の仮面――『骸隻の面』を、むしり取るようにして剥ぎ取った。
「う……あ、ああ……っ!」
仮面が外れた瞬間、今まで心の奥底に無理やり押し込めていた悲しみの感情が、堤防が決壊したかのように一気に溢れ出した。
復讐を果たしたところで、愛するリアはもう微笑んでくれない。
魂の友であったガルは、二度と笑いかけてくれない。
絶対の盾だった良は、今も生死の境をさまよっている。
残されたのは、ただ何一つ守れなかった自分の「甘さ」への激しい悔恨と、言葉にできない絶望だけだった。
「リア……! ガル……っ! すまぬ……すまぬ……っ!!」
トトの手綱を握る両手は激しく震え、視界は涙で完全に遮られていた。冷徹な怪物などではなかった。鉄面を外した彼は、ただ最愛の者たちを失って血を吐くように泣きじゃくる、一人の青年にすぎなかった。
溢れる涙が朝の風に吹かれて後ろへと飛び散るなか、仲穎はひたすらに、泣き続けながらトトを疾駆させる。ボロボロに涙を流し、嗚咽を漏らしながらも、最愛の妻と戦友を自らの手で厚く弔わねばならないという、残された漢としての最後の義務感だけが、彼を血に染まった我が家へと走らせていた。
地を打つトトの激しい蹄の音が臨洮の邸宅の前で急に止まり、荒い息遣いと共に砂塵が舞い降りた。
門前では、董家の人々がじっと夫の帰りを待ち構えていた。
侍女頭の木蓮が、長女・華児の小さな手を優しく引き、その隣では、主母である王綏が、昨夜命を落としたリアの遺児――生後間もない弦児を愛おしそうに両腕に抱き抱えている。
「あなた……!」
トトから転がり落ちるようにして馬を降りた夫の姿に、王綏は小さく息をのんだ。
そこにいたのは、先ほど冷徹な『骸隻の面』をつけて出陣していった、恐るべき用兵の怪物ではなかった。
仮面は外され、手綱を握りしめたままのその顔は、押し寄せた悲しみと悔恨に耐えかね、涙と泥でぐしゃぐしゃに濡れそぼっていた。言葉にならない嗚咽を堪え、ただ肩を激しく上下させている。
王綏はその涙の理由を、訊ねなかった。
養父・王渙の死を、その不意打ちを、夫がどれほどの痛みをもって断ち切ってきたか。ただ、涙で汚れきった仲穎の顔を見ただけで、すべてが滞りなく終わり、夫が過酷な決着をつけて帰ってきたのだと、彼女は静かに察した。
王綏は腕の中の弦児を木蓮にそっと託すると、取り乱すことなく、百合のように凛とした佇まいで夫の前に歩み出た。指示を終え、深く、深い慈愛を込めて、ただ一言だけを伝えた。
「――あなた。葬儀の準備は、すべて整えてあります」
その静かな言葉は、張り詰めていた仲穎の心を優しく包み込むようだった。
仲穎は仮面を握りしめたまま、小さく、しかし言葉にならない感謝を込めて、深く頷いた。
臨洮の青空の下、董家の邸から出発した葬列は、街の歴史に永遠に刻まれるほどに異例で、壮絶な規模に膨れ上がっていた。
本来、一介の地方役人の家庭の葬儀など、一族のみの質素なもので終わるのが、当時の涼州の常識である。しかし、門前に並んだのは、白一色の喪服に身を包んだ臨洮の巡邏部隊(漢兵)たちと、赤きザルマを先頭に、全身の殺気を哀悼へと変えた羌族の戦士たちであった。漢族と異民族――本来であれば国境で刃を交え合うはずの二つの勢力が、二人の英雄を送り出すために、入り乱れて棺を担いでいる。
棺の前には、死者の姓名を記した白い絹の旗『銘旌』が朝の風に翻っていた。
「董門側室・リアの柩」
「羌族首領・ガルの柩」
宙には、あの世の通貨とされる白く丸い『紙銭』が雪のように絶え間なく撒かれ、風に舞っている。漢兵たちが静かに頭を垂れて進むなか、羌族の戦士たちは武器を盾に打ち鳴らし、大気を震わせるような地鳴りの咆哮を上げて、亡き首領の魂を讃えていた。
仲穎(董卓)は、王綏から手渡された白い野の花を、二つの棺の上にそっと手向けた。
(リア、お前の遺した数字が、董家を救った。ガル、お前の遺した背中が、我が家族を守った。……お前たちの死を、決して犬死にはさせない)
仮面を外した仲穎の瞳からは、もう涙は流れていなかった。その目は、悲しみの果てに、すべてを冷徹に見据える「仮面の用兵」のそれへと完全に変貌していた。
白と赤の葬列は、臨洮の荒野の丘へと進み、二人の骸は深く、厳かに大地へと還された。ガルの愛馬ザルマが、主の眠る土に向かって、最期の別れを告げるように天を仰いで長く嘶いた。




