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第六十回

臨洮りんとうから数里離れた、王渙おうかんの汚職の拠点である「隠し倉庫の街」。


朝の商売が始まり、活気に沸くはずの街道を、一陣の赤い暴風が切り裂いた。


「な、なんだ、あの馬は……ひっ!」

行き交う商人たちが悲鳴を上げて左右に飛び退く。


現れたのは、獰猛な汗血馬・トト。そしてその背に跨る、鈍色にびいろに鈍く光る仮面――『骸隻(がいせき)の面』を深く被った男、仲穎であった。


かつての誠実で礼儀正しかった青年の気配は、その全身から微塵も感じられない。ただただ周囲を圧するような、冷徹で禍々しい軍才の殺気だけが、砂塵と共に渦巻いていた。


仲穎はトトの手綱を一切緩めることなく、街の奥にそびえる王渙の堅牢な隠し倉庫の正門へと突入する。

「何者だ! 止まら……がはっ!?」

門を固めていた王渙の私兵たちが武器を構えるより早く、トトの強靭な前脚が門扉ごと私兵を蹴り飛ばした。


轟音と共に破られた門の向こう、倉庫の庭に、仲穎は静かに着地する。手には、リアの血で汚れたあの交易帳簿、そして背には強弓『骨喰ほねばみ』が背負われていた。


「な、仲穎……!? 馬鹿な、なぜお前がここに……!」


騒ぎを聞きつけ、奥の回廊から転げるように出てきたのは、汚職の黒幕であり、都の官僚へと収まる算段に狂っていた男、王渙であった。昨夜、手練れの私兵集団を差し向けて董家を皆殺しにしたはずの男が、今、無傷で、それどころか見たこともない異形の鉄面を被って目の前に立っている。その事実に、王渙の顔は一瞬で土気色に染まった。


「出会え! 出会え! 暴漢だ、この不届き者を叩き斬れ!」


王渙の悲鳴に呼応し、倉庫の影から数十人の武装した私兵たちが一斉に飛び出し、仲穎を幾重にも取り囲んだ。


しかし、仲穎は、眉一つ動かさない。仮面をつけることで、彼の中にあった「照れ」や「躊躇い」は完全に消滅していた。


「――無駄だ、義父上ちちうえ

仮面の隙間から漏れ出た声は、低く、低音の地鳴りのように響いた。


「あなたが都から集めたという手練れの私兵どもは、昨夜、我が門前でガルの骨にその刃を全て叩き折られ、一人残らず屍となった。いまあなたの周りにいるのは、ただの数合わせの烏合の衆だ」


仲穎は、血染めの交易帳簿を地面へ冷酷に投げ捨てた。


「リアの命、ガルの命、そして良の右目と左腕の代償だ。全体の利益の六割を横取りし、都の宦官へ貢いだ汚職の証拠、そのすべてがここにある。これでお前の役人としての命脈は尽きた」


仲穎が静かに歩を進めると、取り囲んでいたはずの私兵たちがその圧倒的な威圧感に気圧され、じりじりと後ろへ下がる。本当の恐怖を悟った王渙は、途端に顔の血の気を引かせ、かつてのように優しげな笑みを必死に浮かべながら、這いつくばるようにして仲穎の情に訴えかけ始めた。


「待ってくれ、仲穎……! 誤解だ、すべては都の宦官どもに脅されてやったことなのだ! 私がお前をここまで引き立て、我が最愛の養女であるすいを嫁がせたのを忘れたか? お前と私は、実の親子も同然ではないか。生真面目なお前なら分かってくれるはずだ。私を殺せば、綏は悲しみ、お前はただの逆賊として追われる身になるのだぞ……っ!」


必死に涙を浮かべ、かつての「第二の父」としての顔で命乞いを試みる王渙。生真面目な仲穎ならこの言葉で油断し、隙ができると踏んだ欺瞞ぎまんの説得。――だが、その涙の奥には、長年共に過ごした青年への、本物の情が確かに混ざり合っていた。


(都での栄転さえ……これさえ手に入れば、お前たちと共に栄華を極められたのだ。なぜ、なぜ気づいてしまった、仲穎……!)


王渙の目から、大粒の涙が零れ落ちる。都の権力への異常な執着と、愛する息子への情。二つの狂気に引き裂かれた王渙は、泣き崩れるような格好のまま、袖の奥の右手を隠し持っていた短剣へと伸びた。


「――すまぬ、仲穎……っ! すまぬ……!」


王渙は嗚咽おえつを漏らしながら、謝罪の言葉と共に豹変し、懐から引き抜いた短剣で仲穎の喉元へ突きかかった。


涙で視界を濡らしながらも、己の保身のために息子を刺さざるを得ない、悲しき親の不意打ち。それと同時に、周囲の私兵たちへも目配せで一斉突撃を命じる。


だが、仲穎はすでに、背の強弓『骨喰ほねばみ』を完全に引き抜いていた。


その動きには、一寸の迷いも、怒りの激昂すらもない。ただ淡々と、牙を剥いた害獣を屠るかのような絶対的な静けさがあった。


義父上(ちちうえ)。あなたを第二の父と慕い、涙ながらに不正を正すよう懇願した生真面目な仲穎は、昨夜、あなたが放った刺客の手によって、リアの亡骸の横で死んだ」


涙を流しながら短剣を突き出してくる王渙の眉間に、仲穎は『骨喰』に番えた太い矢を完全に捉える。その照準は一分の狂いもない。


「だが、私はあなたに感謝している。……あなたのおかげで、ようやく理解できた。実直さや誠実さだけでは、この濁りきった世を正すことなど到底できぬということをな」

「ひ、ひぃ……っ!」


迫る圧倒的な威圧感と、満月の如く引き絞られた強弓の恐ろしさに、王渙の身体が恐怖で硬直する。涙を流しながら短剣を突き出す手は、仲穎の身体に届く遥か手前でピタリと止まってしまった。


「私の中にあった青臭い甘さが、最愛の妻を殺し、友を死なせ、従者の肉体を奪った。……義父上、これからは、その甘さをすべて捨てる。私は、この世の誰よりも冷徹な怪物となり、力をもってすべてを蹂躙すると、このおもてに誓おう」

「待っ――!」

「王綏は、董家の主母だ。あなたの娘ではない」


冷酷な言葉が言い放たれた瞬間、引き絞られた骨喰の弦が、朝の街の空気を引き裂く爆音を立てて弾けた。


ヒュン、と空気を切り裂く短い音が響き、次の瞬間には、襲いかかろうとした王渙の眉間に深々と矢が突き刺さっていた。王渙は声も出せず、目を見開いたまま後ろ倒しに崩れ落ち、二度と動かなくなった。その手から離れた短剣が、乾いた音を立てて地面を転がる。己の権力欲のために息子を刺そうとし、涙を流しながら逝った、かつての義父の悲しき最期であった。


「う、王渙様がやられた……っ!」「化け物だ、逃げろ!」


証拠隠滅のために治安維持部隊長を逆襲しようとし、逆に神速の武技で返り討ちにあった主君の姿を見て、周囲の私兵たちは完全に戦意を喪失した。彼らは武器を落とし、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑うか、その場にへたり込んで降伏した。


仲穎は骸隻の面をつけたまま、ゆっくりと弓を下ろした。


朝の光が倉庫の庭を白々と照らすなか、襲撃の返り討ち(正当防衛)として適正に処分された王渙の遺体を見下ろす彼の背中は、もう二度と「誠実な青年」には戻れない悲しさと、圧倒的な絶対者の威厳を纏っていた。

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