第五十九回
戦士たちと巡邏部隊の連携による街の警戒配置を指示し終え、邸内へと戻った王綏を、木蓮が複雑な表情で迎えた。
「見事な調略にございます、お嬢様。……ですが、本当に良かったのですか。王渙様は、あなたを育てたお父上でもあるのに……」
木蓮の問いに、王綏は静かに机の上の書面へ目を落とした。そこには、亡きリアが命を懸けて遺した、血染めの民間交易帳簿が置かれている。
「父は、己の栄転のために、私を、この子たちを、董家のすべてを皆殺しにしようとしました。良さんは右目と左腕を失い、ガル殿とリアさんは命を落とした。外では別部隊の巡邏の方々までが血を流した我が家を直してくれている……。もう、迷う理由などありません。あの人が武をもって王渙を討つなら、私はこの『筆』で、静かにあの人を支えます」
王綏は自ら筆を執り、恐ろしいほどの正確さで書簡を書き上げ始めた。そこには、王渙の独特な筆跡、文章の癖、暗号印が完璧に再現されていく。養女として長年、王渙の書状を整理させられていたからこそできる芸当だった。
「これは、王渙の名で、都の汚職官僚(宦官)たちへ宛てた『偽の密告状』です。中身は、王渙が保身のために、都の仲間を裏切って全財産を隠蔽しようとしている、という内容に仕立ててあります」
木蓮がハッと息をのんだ。
「なるほど……。この書簡が都へ届けば、都の宦官どもは王渙を裏切り者と見なし、自らの保身のために王渙を圧殺しにかかりますね」
「その通りです。王渙がどれほど弁明しようとも、この私の書いた書簡と、リアさんが遺した本物の帳簿の数字が合致すれば、言い逃れはできません。王渙は、自分が信じた『都の権力』によって、内側から食い殺されるのです」
百合のように儚げだった王綏の横顔に、いまや夫・仲穎と同じ、冷徹なまでの覚醒の光が宿っていた。しかしそれは憎悪に狂ったものではなく、愛する家族を守り抜いたという、正妻としての深い慈愛と覚悟の光だった。
「木蓮、この書簡を、私が指定する臨洮の闇交易へ流しなさい。明るくなった今なら、街の商人たちも動きやすいはずです。精度高く書き上げた書簡は、王渙の息の根を確実に止める刃になります。そして……作戦が終わったら、良さんのいるお医者様のところへ、様子を見に行きましょう。私たちは、絶対にこれ以上、家族を失ってはならないのですから」
「……御意にございます、お嬢様。必ずや、この任務、果たして見せます」
木蓮は書簡を大切に懐へと収め、朝光の差し込む街へと力強く歩み出した。
一人残った王綏は、再び寝所の奥へと戻り、弦児と華児を両腕に抱き上げた。
窓の外を見上げれば、雲一つない青空が広がっている。外からは、巡邏部隊の男たちが屋敷を直す木槌の音が規則正しく聞こえてくる。仲穎がいま頃、国境の治安維持部隊長としての冷徹さを極限まで研ぎ澄まし、骸隻の面をつけてトトと共に砂塵を巻き上げ、王渙を追い詰めるべく駆けている姿が目に浮かぶようだった。
王綏はふと、腕の中の弦児を見つめながら、静かに目を閉じる。
(――いずれすべてが終わったら、あなたをこの臨洮の美しい大地に還しましょう、リアさん)
彼女の脳裏には、いずれ執り行うであろう葬儀の情景が、確かな予感として浮かんでいた。
臨洮の澄んだ風のなか、白一色に包まれた静かな葬列。
ガル殿のために羌族が捧げる狼の遠吠えのような鎮魂の歌。
そして、仲穎がその手で棺に手向けるであろう、リアが好きだった野の花。
いまはまだ瓦礫の片付けに追われ、復讐の最中にあって、涙を流して弔う暇すらない。けれど、すべてに決着をつけたその時、董家を挙げて二人を最高の栄誉と、深い慈愛をもって見送るのだという情景が、王綏の胸を満たしていく。
「……リアさん、見守っていて」
王綏はそっと目を開け、リアの面影を強く宿す遺児・弦児の小さな手を優しく握りしめた。
「あなたの遺した数字が、いま、董家を救う最大の武器になりました。この子たちは、私が必ず、董家の立派な血脈として育て上げます」
「あなた。あなたが過酷な修羅の道を往くなら……私は董家の主母として、静かに足元を支え続けましょう」
凄惨な夜は終わり、いま、明るい陽光の下で董家は明確な「反撃」へと転じる。
主なき邸で佇むザルマの寂しげな嘶きだけが、これからの血の洗礼を予感させるように、臨洮の朝に響き渡っていた。




