第五十八回
地を打つトトの激しい蹄の音が、朝の光が差し込み始めた臨洮の街道に響き渡り、やがて遠くへ消えていった。
夜襲の嵐が去り、昇った太陽が容赦なく邸内を照らし出す。白い朝光が暴いたのは、飛び散った血痕と、無数に刻まれた刃の傷跡という凄惨な現実だった。
しかし、静まり返るはずの邸内には、小気味よい木槌の音や、瓦礫を片付ける男たちの声が響いていた。仲穎が率いる国境の治安維持部隊とは別系統である、臨洮の街の「巡邏部隊」の隊員たちが、夜襲で荒れ果てた屋敷を復旧させるために残って手伝ってくれていたのだ。
国境を脅かす外敵と戦う仲穎の軍才と武勇は、街の治安を担う彼ら巡邏部隊にとっても畏敬の対象であった。その英雄の邸が夜襲を受けたと知り、別部隊の管轄ながらも、彼らは放っておけずに駆けつけたのだ。
「奥方様、こちらの崩れた塀は我々で塞いでおきます。仲穎殿が戻られるまで、董家は我々が死守しますので、どうぞ中でお休みください!」
汗を拭いながら実直に頭を下げる巡邏部隊の隊員たち。側室のリアを失い、絶対の盾であった良も右目と左腕を失う重傷で今朝早くに医者のもとへ搬送され、一時は完全に無防備となった董家。女と子供しかいないこの極限状態において、彼ら巡邏部隊の労働力と守護は、精神的にも物質的にも貴重な救いであった。
「ありがとうございます。みなさんの御厚情、あの人もきっと感謝しています」
寝所の扉を開け、朝の光の中へ歩み出た王綏は、彼らに深く一礼した。その腕には、昨夜命を落としたリアの遺児である弦児が抱かれている。隣では、実子である華児が木蓮の手に引かれていた。
王綏はそのまま、門前へと向かう。そこでは、主を失い、自らも敵の刃で傷を負ったガルの愛馬・ザルマが、朝靄のなかで寂しげに一度だけ低く嘶いた。その足元には、無数の凶刃をその肉体と骨で受け止め、文字通り「壁」となって董家を守り抜いた羌族の若きリーダー・ガルの遺体があった。
「……ガル殿。あなたのおかげで、私たちはこうして生きています」
王綏はガルの遺体の前で静かに膝を突いた。衣服の裾が血に染まるのも厭わず、彼女はガルの泥と血に汚れた顔を、自らの白い領巾で優しく拭っていく。
「木蓮、巡邏部隊の方々の手も少しお借りして、すぐに臨洮で最も上質な棺と、羌族の伝統に則った埋葬の準備を整えなさい。董家のために命を捧げてくれた異族の英雄を、私たちは決して犬死にさせてはならない」
ガル殿の訃報を聞きつけ、邸の周囲には動揺した羌族の戦士たちが集まりつつあった。若きリーダーを失い、怒りと困惑に狂う彼らは、今にも暴動を起こしかねない殺気を孕んでいる。
邸内を手伝っていた巡邏部隊の面々が、一斉に緊張して武器に手をかけた。街の治安維持を担う漢の巡邏兵と、血気盛んな羌族――いつ衝突が起きてもおかしくない一触即発の空気。
しかし、王綏は毅然と彼らを制し、自ら殺気立つ羌族の戦士たちの前に進み出た。
「ガル殿の同胞たる、勇敢なる羌族の戦士たちよ!」
王綏の凛とした声が、朝の邸内に響き渡る。
「ガル殿は、我が夫・仲穎の友であり、この董家の絶対の恩人です。彼は無数の刺客をたった一人で食い止め、私たちの命を、子供たちの未来を守り抜いた。彼は死してなお、誇り高き狼のままでした!」
ざわめく戦士たちと、それを見守る巡邏部隊の部下たちを一心に見据え、王綏は毅然と言い放った。
「ガル殿の血は、董家の歴史に永遠に刻まれます。……しかし、首領を失ったあなたたちは、これからどうするのです? 漢の役人どもに『暴徒』として討伐されるか、それとも、ガル殿の仇を討ちたいか!」
戦士たちから、地鳴りのような怒号と「仇を討つ!」という声が上がる。
「ならば、董家の旗の下に集いなさい!」
王綏の瞳に、夫・仲穎と同じ冷徹なまでの軍才の片鱗が宿る。
「我が夫は今、国境を脅かす敵を討つ治安維持部隊の長としてではなく、我が家の仇を討つべく『骸隻の面』をつけ、黒幕たる王渙を討ちにトトで出陣しました。あなたたちを丸ごと、董家の私兵として迎え入れます。ここにいる巡邏部隊の方々も、あなたたちを『ガルの戦友』として認めてくれています。ガル殿の抜いた刃をそのまま董家の矛としなさい。私たちが、あなたたちの衣食を終生保障し、ガル殿の名に相応しい栄誉を漢の朝廷に認めさせてみせます!」
その毅然とした態度、ガル殿への深い敬意、精度高く紡がれる言葉に、羌族の戦士たちは静まり返った。
やがて、一人の屈強な戦士が王綏の前で片膝を突き、続いてすべての戦士たちが一斉に武器を引いて臣下の礼をとった。巡邏部隊の兵たちも、その圧倒的な調略を前に、若き主母への畏敬の念を深くしていた。
首領を失い空中分解するはずだった羌族の精鋭部隊が、この朝、王綏の手によって「董卓軍の原型」となる無敵の私兵集団へと生まれ変わった瞬間だった。




