第五十七回
漢陽郡の州治、冀県。
臨洮の田舎じみた役所とは比べものにならない、そびえ立つ強固な城壁と、幾重にも連なる白壁の官衙がそこにはあった。
その一角にある豪奢な客舎の密室で、王渙は狂ったように木簡へ筆を走らせていた。
「よし、これでいい……。これで、全てが繋がる……!」
乾きかけた墨を睨みつけながら、王渙は荒い息を吐いた。夜逃げ同然に馬車を飛ばし、この大都市の城門を潜り抜けてから数日。刺史の役所が擁する大軍の庇護下に身を置いたことで、ようやくがたがたと震える膝は収まっていた。だが、胸の奥を焼く焦燥と、五臓六腑を泥のように濁らせる罪悪感は、一刻たりとも消えなかった。
(すまない……。すまない、仲穎……! なぜお前はあそこまで実直だったのだ。お前が私の汚職を見逃してくれさえすれば、こんな大罪を重ねずに済んだものを……!)
王渙の手は、微かに震えていた。
王渙にとって、董卓は単なる邪魔者ではない。実の息子のように、その才能を、その誠実さを誰よりも愛おしく見守ってきた我が義理の息子なのだ。殺したくなどなかった。破滅になど追い込みたくはなかった。
だが、中央への転属の確約はまだ得られていない。ここで仲穎に不正を暴かれれば、都の宦官から容赦のない粛清を受け、王家全体が破滅する。あやつがこの冀県まで証拠を手に追ってくる前に、先手を打って「公の法」で抹殺する。それしか、自分が生き残る道はなかった。
王渙は涙を堪え、自らの愛した息子の首を絞めるが如き心地で、真っ赤な偽りの弾劾状を書き殴っていった。
『臨洮の治安維持部隊長・董卓。あやつは、かねてより不穏な動きを見せていた羌族の長・ガルらと極秘裏に結託。交易品の利益を不正に搾取し、独自の軍資金を蓄えていた。我がその汚職を看破し、糾弾しようとしたまさにその夜、董卓は逆賊の本性を現し、手下の異民族どもを率いて我が邸宅を襲撃した。我が身内である王綏をも人質として拉致し、現在は臨洮の地を不法に占拠している――』
「王大人、刺史の側近である主簿様がお見えです」
私兵の声に、王渙は胸の動揺を強引に抑え込み、素早く「心配に狂う父親」の仮面を顔に張り付けた。
「お通ししろ!」
部屋に入ってきたのは、傲慢な笑みを浮かべた上級官僚の男だった。王渙は机の上に、臨洮から必死の思いで運び出した極上の絹織物と、黄金の詰まった箱を惜しげもなく押し出した。
「これはこれは、主簿大人。遠路はるばる臨洮から逃れてきた我が身を、このように温かく迎えていただき、感謝に堪えませぬ。……これは、ほんの、我が王家からの誠意にございます」
きらめく黄金を一瞥した主簿の眼が、貪欲に細められる。
「ふむ。都に十常侍の伝手を持つ王大人が、地方の野蛮な武官に襲われたと聞いて、刺史大人も酷く心を痛めておいでだ。……して、その木簡が?」
「はっ。臨洮の治安維持部隊長・董卓が、いかにして羌族と結託し、漢王朝への反逆を企てたか。その全貌を記した告発状にございます」
王渙は取り乱した父親の演技を交えながら、涙ながらに言葉を絞り出した。
「あやつの正義面に、私も、我が愛娘の綏児も完全に騙されていたのです! 我が身に代えても、北辺を脅かすあの若き逆賊を、公の法のもとで厳罰に処していただきたい!」
「なるほど、実にもっともな言い分だ。この弾劾状は、確かに私が預かろう。刺史大人へも、董卓追討の兵を出すよう手配をいたす。……どれほど武勇に優れた武官であれ、公文書に『逆賊』と刻まれてしまえば、もはやこの涼州に逃げ場などない」
主母は黄金の箱を抱え、満足げに部屋を去っていった。
一人残された密室で、王渙は張り付いた父親の仮面を剥ぎ取り、机に突っ伏した。
口元から漏れ出たのは、破滅を回避できた安堵の笑いか、あるいは、最愛の息子を自らの手で逆賊に仕立て上げた絶望の、獣じみた嗚咽か。
(これでいい……。これでいいのだ、仲穎。お前がどれほど優秀な武官であれ、地方の部隊長に過ぎん。上級官僚の権力と金を以てすれば、お前の『実直な正しさ』など、いくらでも逆賊の罪状に書き換えることができる……!)
これであやつの首には、漢王朝の公式な懸賞金がかかる。
逃げ込んできたはずのこの冀県は、今や、王渙の血を吐くような権謀術数によって、董卓を誘い出して処刑するための巨大な檻へと変貌を遂げていた。




