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第五十六回

馬元義ばげんぎが、再び血の臭いが立ち込める董卓の邸宅へと馬を乗り入れたとき、臨洮りんとうの街は薄暗い朝靄から、完全に朝の光へと移り変わっていた。


門前には先ほどと変わらず、仮面をつけた仲穎ちゅうえいと、二人の子供を抱いた王綏おうすいが佇んでいる。


仲穎の的確な指示通り、地元の巡邏兵たちは遠巻きに周囲の警戒に当たるだけでなく、すでにそれぞれの任務へと迅速に動いていた。馬元義が不在にしていたわずかな時間の間に、邸内は役所の公務として確実に整理され始めていた。


腕の立つ兵たちが重傷のりょうを担架に乗せて医者のもとへと搬送し終えたほか、さらに数名の兵たちが屋敷の奥へと入り、侍女頭の木蓮もくれんの手伝いに加わっていた。夜襲によって激しく荒らされた回廊の瓦礫を撤去し、遺体の収容や現場の片付けを木蓮の指示のもとで黙々と進める兵たち。お嬢様(王綏)や幼子たちがひとまず身を寄せる場所を少しでも整えようとする彼らの動きには、北辺の街の治安を任された地方役人の、無駄のない実務能力が表れていた。


そして、二人の子供を強く抱きしめる王綏のすぐ横には、あの獰猛な汗血馬トトが静かに寄り添い、待機していた。夜の闇を駆け抜けて彼女たちの命を救い出したトトは、今や董家の守護獣のように、主母と幼子たちをその巨体で護るように佇んでいる。


一方、仲穎のすぐ傍らには、ガルの愛馬である赤毛の牝馬ザルマがいた。


主を失い、自らも刺客の刃によって浅い傷を負ったザルマは、悲しげに鼻を鳴らしながら、じっと佇む仲穎の肩へ寂しそうに首をすりつけている。仲穎はその大きな首筋を、感情の消えた大きな手で静かに、優しく撫で続けていた。ガルの無念と遺志を、その身に引き受けるかのように。


馬元義は馬から飛び降りると、真っ直ぐに仲穎へと歩み寄り、その仮面を見据えて声を潜めた。


「仲穎……おい、一体何が起きている。俺はさっき、役所の裏門から王渙大人が夜逃げ同然に馬車で飛び出して行くのを見た」


友の言葉に、仲穎の身体は微動だにしない。ただ、冷たく乾いた仮面の奥の双眸がじっと馬元義を捉える。馬元義は門前に転がる黒装束の死体――地方の私兵ではない、中央の洗練された暗殺者の骸に目をやり、工程確信を込めて言葉を絞り出した。


「行き先は東、漢陽かんよう郡の『冀県きけん』へ向かう街道だ。あの大人(ダーレン)は、まるで幽霊でも見たかのように血の気が引き、恐るべき狼狽え方で逃げていった。状況からすりゃ、お前たちをこんな目に遭わせた黒幕は、あの大人しか考えられねえ。……だが、意味が分からねえんだ」

馬元義は自身の頭を乱暴に掻きむしり、困惑と憤りが混ざった声を絞り出した。


「なんであの王渙大人が、お前を殺さなきゃならねえ!? あの大人はお前を実の息子みたいに可愛がってたじゃねえか。身内同士で殺し合うなんて、一体何の動機があってそんな大それた真似を……俺の頭じゃ、さっぱり繋がらねえんだよ」


襲撃の犯人は分かっても、その背景にある「交易品の莫大な利益搾取」や「中央への栄転への妄執」までは、一介の地方部隊長に過ぎない馬元義には知る由もない。あまりに不条理な裏切りに、彼の脳内は激しく混乱していた。


「……教えていただき、感謝いたします、殿」


仲穎が答えるより先に、隣で子供たちを抱く王綏が、乱れることのない澄んだ声で応じた。その瞳には涙の一滴すら浮かんでいない。


「私はもう、あの人の娘ではありません。董家の主母として、夫の行く道を遮るものは、それがかつての父であろうとも……私は決して許しません」

王綏のその言葉が、王渙の裏切りという冷酷な事実を容赦なく証明した。


その凛とした言葉を聞いた瞬間、仮面をつけた仲穎が、初めてゆっくりと口を開いた。


地底から響くような、だが冷徹に張り詰めたその声は、かつての生真面目な青年・仲穎のものではなかった。


「――冀県、か」


仲穎はザルマの首から手を離し、強弓『骨喰ほねばみ』を握る手にぐっと力を込めた。動機が分からず困惑する馬元義を余所に、仮面の用兵はすべてを冷徹に見切っていた。


「あ奴は、この臨洮の交易から莫大な利益を横流しし、都の宦官へ転属するための賄賂わいろに宛てていた。私が実直にその不正を質したことで、積み上げてきた都への栄転がすべて白紙になり、さらに十常侍から粛清される恐怖に耐えかねたのだ」

淡々と、狂気すら感じさせる平坦な声で、義父の醜悪な動機を紐解いていく。


「都への確約がない以上、あ奴が逃げ込める避難所はそこしかない。涼州刺史の権力と強固な城壁に守られながら、中央からの召集令状を待つ算段だろう。実に見え透いた、文官らしい保身の用兵だ」


「仲穎、どうするつもりだ。今からトトを飛ばせば、冀県に辿り端つく前に馬車を追いつめられる。お前の腕なら、背後から一矢で仕留められるはずだ」

馬元義の提案に、しかし仮面の用兵は静かに首を振った。


「いや、道中で私刑に処せば、我らこそがただの『王渙殺しの逆賊』となる。あ奴が最も恐れているのは、死そのものではない。己の地位、名誉、中央への栄転という野心が根底から崩れ去ることだ。……何より、我々にはリアが命懸けで遺した、あの民間交易の帳簿がある」


仲穎は屋敷の奥――かつてリアが正確な数字を書き込んでいた書斎の方角へと視線を向けた。


「あの正確な数字こそが、王渙の汚職の全貌を暴く絶対の武器。あ奴の首を物理的に刎ねるだけでは、リアの無念は晴れん。汚職の証拠を、冀県の涼州刺史、あるいはその上層部へ直接突きつける。王渙を、公の法のもとで完全に社会的、政治的に破滅させる。逃げ込んだはずの冀県を、あ奴の処刑台に変えてやる」


誠実さを捨て去り、冷徹な怪物として完全覚醒した『仮面の用兵』の初手。


それは、単なる感情的な暗殺ではなく、王渙の最も執着する「栄転への野心」を法と証拠でじわじわと、かつ確実に圧殺する冷酷な計略であった。


「……なるほどな。お前、本当に別の生き物になっちまったんだな」


馬元義は、同僚のその底知れない変貌に戦慄を覚えつつも、どこかその冷徹な軍才に深く感服していた。職場の悩みを語り合っていた生真面目な青年は、もうここにはいない。だが、その失われた誠実さの代わりに手に入れた圧倒的な器の片鱗を、馬元義は確かに感じ取っていた。


「よし、臨洮の事後処理は俺が引き受ける。ここは治安維持部隊の襲撃事件として、俺の部隊で適切に役所へ報告を上げておく。上をどう誤魔化すかは俺の得意分野だ。お前は、お前の戦いをやってこい」


仮面の奥で、仲穎の眼差しがわずかに揺れた。誠実さを捨て鬼になると誓った身であっても、この良き友の無私の情誼じょうぎだけは、完全に切り捨てることができなかった。仮面の奥から漏れ出たのは、冷徹な響きの中に、確かにこれまでの温かさを残した静かな謝意だった。


「――恩に着る、元義殿」


仲穎は短く、だが万感を込めて応じた。そして、愛馬トトの待つ王綏の隣へと、そして復讐の旅路へと、静かに歩みを進め始めた。


その背中を見送りながら、馬元義は独りごちた。


(仲穎……お前がその仮面を脱ぐ日が来るのか、それとも、その仮面ごと天下を喰らい尽くすのか。見ものだな)


地獄の夜を越えた臨洮の空に、冷たい朝陽が完全に昇りきろうとしていた。

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