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第五十五回

臨洮の朝靄を切り裂くように、馬元義ばげんぎは馬を飛ばしていた。


夜半、同僚である董卓(仲穎)の邸宅の方角から上がった、ただならぬ怒号と地響き。街の復興や治安維持を担う別部隊の隊長として、そして何より、日頃から現場の実務や職場の悩みを語り合ってきた「良き友人」として、馬元義は胸を騒がせていた。


「仲穎、無事でいてくれよ……!」


まだ朝が明けてばかりで、市場も動いていない静まり返った時間帯だ。街が眠りにつく中、馬元義は役所での朝の点候など放り出し、何よりもまず仲穎の邸へと直接馬を走らせた。とにかくあいつの安否をこの目で確かめる。それだけが彼の頭を占めていた。


だが、たどり着いた董卓の邸宅の門前は、言葉通りの地獄と化していた。


「ひっ……、あ、近寄るな……!」


遠巻きに囲む巡邏(じゅんら)部隊の兵たちが、恐怖に歯の根を鳴らしながら、一歩も近づけずに立ち尽くしている。彼らの視線の先にあるのは、へし折られ、引き裂かれた、黒装束の男たちの肉塊。位置する血の海の中心に佇む、二つの影だった。


一人は、頭部から深く『骸隻(がいせき)の面』を装着した董卓――仲穎。


かつての誠実で礼儀正しい青年の気配は、そこにはなかった。仮面の奥の双眸は、ただの一個の冷酷な生命体として、朝の光を無機質に反射している。その手には、強弓『骨喰ほねばみ』が握られていた。

そして、その血の海の真ん中で、まるで心を無くしてしまったかのように立ち尽くす夫の傍らに、正妻の王綏おうすいが静かに寄り添っていた。


白い衣の裾を真っ赤に染めながら、彼女はその両腕に、一歳半の華児かじと、まだ生まれたばかりの弦児げんじの二人を愛おしそうに、しかし決して離さぬよう強く抱きしめていた。


幼子たちの小さな体温を感じながら、最愛の夫のあまりにも痛ましく、悲痛に満ちた背中を見つめる。かつての百合のような儚いお嬢様だった彼女は、そこにはいない。養父への復讐に挑む夫を深く静かに支持し、董家の血脈を何としても守り抜くという、主母としての静謐な決意がその瞳には宿っていた。


「董、董隊長……。これは、一体……」

管轄の違う巡邏部隊の兵が、かろうじて声を絞り出す。


仲穎は地底から響くような、一切の感情を排した声で静かに応じた。


「――賊はすべて排除した。屋敷の奥でりょうが右目と左腕を失う重傷を負っている。木蓮もくれんが応急処置をしているが、一刻を争う。お前たちのうち、腕の立つ者を数名連れてただちに良を臨洮で最も名のある医者のもとへ運べ。残りは周辺の警戒に当たれ」


威圧するでもなく、淡々と状況を伝えるその静かな指示には、地元の兵たちに反論を許さない圧倒的な重みがあった。


「は、はいっ! ただちに!」

兵たちは深く息を呑むと、緊迫した様子で屋敷の奥へと駆け込み、木蓮の指示のもとで血の海に伏せる良を担架に乗せ、医者のもとへと迅速に搬送していった。


そこへ、猛烈な勢いで馬を乗り入れた馬元義が、飛び降りるようにして割って入った。


「仲穎! 無事か!?」


駆け寄ろうとした馬元義の足が、凄まじい惨状を前にピタリと止まる。へし折られた死体の数々、そして邸内から漂う、リアやガルの死の匂い。


何より、目の前に立つ同僚が、禍々しい仮面をつけ、完全に別の気配を纏っていることに、馬元義は息を呑んだ。


「お前……その面は、一体どうしちまったんだよ……」


良き同僚として、仲穎が現場の執務で抱えていた生真面目な苦悩を誰よりも知っていた。だからこそ、その誠実さを捨て去ったかのような姿に、馬元義の胸が締め付けられる。だが、仲穎は同僚の痛切な問いかけに一切答えることなく、ただ冷たく視線を返すのみだった。


この惨状、および何者かも分からぬ黒装束の暗殺者たち。

ここがこれ以上荒らされぬよう、そしてこの異様な事件の事後処理の準備を進めるため、馬元義は一度役所へと向かうべく身を翻した。



馬を飛ばし、朝一番の役所へと駆けつけたその時だった。激しい馬蹄の音と共に、役所の裏門から一台の馬車が猛烈な勢いで飛び出してきた。


「退け! 退かぬか!!」


御者の怒号。護衛の騎馬数騎を従え、狂ったように鞭を入れられたその馬車の窓から、一瞬だけ横顔が見えた。いつも優雅な笑みを崩さず、自分たち地方の武官にも目をかけてくれていた、中央の文官・王渙おうかんだ。だが、その顔は酷く狼狽し、血の気が完全に引いていた。


(王渙大人……!? なぜ、この朝早くに、あれほどの財貨を積んでどこへ行く……)


馬車が向かったのは、東――漢陽郡の冀県きけんへと続く街道だった。


先ほど董卓邸で見た、都の精鋭とおぼしき暗殺者たちの死体。そして、その義父である王渙の、夜逃げ同然の狼狽した逃亡。


馬元義の脳内で、全ての点と線が、最悪の形で繋がった。


「……なるほどな。そういうことかよ、王渙大人」


馬元義は低く呟くと、すぐさま自らの愛馬の手綱を翻した。役所での実務など後回しだ。今見た事実を、何としてもあの鉄面の男に伝えなければならない。彼は再び、血煙の上がる董卓の邸宅へと馬を走らせた。

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