第五十四回
薄明の光が、豪奢な執務室の床に長い影を落としていた。
王渙は、机の上に広げられた十数枚の木簡を前に、一度も横になることなく朝を迎えていた。そこにあるのは、臨洮の交易から吸い上げた莫大な富の記録。都の十常侍(宦官)へと繋がる、黄金の梯子の図面であった。
「……遅いな」
ぽつりと溢れた呟きは、部屋の冷気へと消えていく。
彼が董卓の邸へ放ったのは、そこらの粗野な私兵ではない。都への献金を極秘裏に護送し、これまでも数々の不都合を闇から闇へと葬ってきた、冷酷無比な本物の暗殺者たちだ。彼らの腕を王渙は信頼しきっていた。だからこそ、作戦の成否を見届ける監視役すら同行させていない。
だが、信頼が揺るぎないものであればあるほど、王渙の胸を焦がすのは冷酷な満足感ではなく、泥のような後悔と苦渋であった。
(なぜだ、仲穎……。なぜ、あんなにも頑なだった……!)
天を仰ぎ、王渙は深く長い溜息をついた。
王渙にとって、董卓は単なる養女の夫ではない。実の息子のように、その成長を、その誠実さを誰よりも愛おしく見守ってきた。第二の父と慕う自分を信じ、私利私欲ではなく、ただ真っ直ぐな正義感と身内への情から「汚職を改めてほしい」と実直に説得してきたあの青年の眼差しが、今も焼き付いて離れない。
殺したくなどなかった。できることなら、己の手で都の栄達へと引き上げてやりたかった。
しかし、王渙には退けぬ理由があった。仲穎の言う「正しい商い」に立ち戻れば、これまで血を吐くような思いで積み上げてきた都への転属はすべて白紙となり、中央への栄転の道は永遠に閉ざされる。そればかりか、約束の金を失った都の宦官から容赦のない粛清を受け、待っているのは王家全体の破滅である。
(あの男のどこまでも実直な正しさが、すべてを破滅させようとしたのだ。私が始末したのではない。時流を読めぬあやつが……私に、我が子を殺す大罪を犯させたのだ……!)
頭を抱え、心の中で血を吐くように自己正当化を繰り返す。
一晩のうちに物言わぬ骸に変わり果てるであろう義理の息子への申し訳なさと、最愛の夫を失い泣き崩れるであろう養女・王綏への罪悪感。五臓六腑を焼かれるような苦しみに耐えながら、王渙はただ、すべてが終わったという「確定した未来」の報せを待っていた。
その時、部屋の扉が激しく叩かれた。
「王大人! 大変でございます!」
入ってきたのは、顔面を蒼白に染めた役所の部下だった。街の治安維持を司る巡邏部隊から上がってきた、あまりにも予想外の緊急報告。王渙は胸の動揺を必死に押し隠し、何食わぬ顔で声をかける。
「騒々しい。朝一番から何事だ」
「臨洮の……董卓隊長の屋敷が、昨夜、何者かの大規模な襲撃を受けました! 門前は血の海、襲撃犯と思われる黒装束の男たちが……全員、へし折られ、引き裂かれ、文字通りの肉塊となって転がっております!」
「……何だと?」
王渙は身を乗り出す。驚きの演技の裏で、心臓が激しく跳ね上がった。ついに終わったのだ。しかし、部下の続く言葉は、王渙が描いていた計画を木っ端微塵に打ち砕くものだった。
「巡邏部隊が駆けつけたところ、邸内には側室のリア殿、そして羌族のガルの惨殺体が残されておりました。ですが……ですが、その血の海の真ん中で、董卓隊長が、主母(王綏)様と共に、朝の光を浴びながらただ静かに立ち尽くしているというのです!」
王渙の思考が、一瞬で凍りついた。
都の精鋭たちが、全滅――。
仕留め損ねた。それどころか、何も知らない部下は怯えきった声でさらに報告を続ける。
「董卓隊長は……顔に禍々しい面を深く着けており、巡邏の者が声をかけても、一切の表情を変えず、ただ凍りつくような眼差しでこちらを睨みつけるばかりだと……! 主母様も、そんな隊長に寄り添い、静かにこちらを見つめておられたそうです」
(馬鹿な……! 都の精鋭が一人残らず肉塊に!? 仲穎一人の武勇でどうやって……!)
脳裏を襲う圧倒的な戦慄。しかし、目の前には部下の目がある。王渙は激しく震えそうになる膝を強引に抑え込み、一瞬で「心配に狂う父親」の仮面を顔に張り付けた。
「ああ、なんということだ……! 綏児! 綏児は無事なのか!? 無傷なのか!?」
王渙は机を激しく叩いて立ち上がり、取り乱したように叫んだ。
「凶悪な賊どもめ、我が愛娘や仲穎に牙を剥くとは断じて許せん! すぐに臨洮中の兵を集めろ! 邸の警戒を厳重にし、二人を、我が身内を何としても保護するのだ!」
「は、はいっ! ただちに!」
必死の形相で叫ぶ王渙の「迫真の演技」に気圧され、部下は深く頭を下げて部屋を飛び出していった。
一人残された執務室。
部下が去った瞬間、王渙の顔から血の気が完全に引き、父親の仮面が剥げ落ちた。
(綏児が仲穎の側に寄り添っている……? 違う。二人はすでに、襲撃の黒幕が私だと知っているのだ)
王渙は机に両手をつき、がたがたと激しく震えた。
仲穎はどこまでも実直で誠実な、そして類稀なる才を持った優秀な武官であり、我が義理の息子だ。その実直さゆえに、彼はこの不正を、そして最愛の側室を奪った身内の罪を、決して見逃しはしない。あの凄まじい武力と証拠を手に、必ず自分を裁きにくる。
「ここにいては殺される……。臨洮の兵など、あやつを止められるものか……!」
まだ都への転属の確約があるわけではない。都まではあまりに遠く、逃げ切る前にあのトト(汗血馬)の駿足に追いつかれ、背後から強弓『骨喰』で射抜かれるのがオチだ。
ならば、目指すべきはここから最も近い大都市――。
涼州刺史の役所が置かれ、強固な城壁と大軍が駐屯する涼州の中心地、漢陽郡の『冀県』しかなかった。あそこの大官たちに金を積み、身の安全を確保しながら、都からの正式な召集令状を待つ。それしか生き残る道はなかった。
王渙は狂ったように机の上の木簡を掻き集め、都への転属献金の目録や最低限の財貨を懐へと詰め込み始めた。もはや、この街で悠然と報告を待つ余裕などひとかけらもない。
「おい! 馬車を、一番速い馬車を裏門へ回せ! 行き先は漢陽の冀県だ! 急げ!!」
朝靄の這う臨洮の役所で、王渙の悲鳴に近い怒号が虚しく響き渡っていた。




