第五十二回
仲穎には、思考を巡らせるだけの余裕さえ残されていなかった。
右目と左腕を深く切り裂かれ、大量の鮮血を噴き出しながら体勢を崩した良。その盾の破れ目から、都の刺客たちが容赦なく刀剣を突き出してくる。仲穎は手近な剣をひったくって持ち替えると、剥き出しの刃を血に飢えさせて肉薄する敵と必死に斬り結んだ。ただ目の前の刃を弾き、無我夢中で至近の敵へ白刃を突き立て、蹴り倒すことだけに全神経を注ぎ込んでいた。
「おおおおおッ!!」
左腕の自由を失い、右目から血を流しながらも、良は残された右腕一本で巨大な大楯を掴み直し、なおも仲穎の前に割り込んで刺客を押し潰した。絶対の盾としての意地だけで動く良の猛撃と、仲穎の必死の剣撃によって、中庭になだれ込んだ刺客の波は徐々に泥に染まって倒れ伏していく。
激闘の末、最後の一人が床に血を吐いて倒れたとき、主屋と中庭を包んだのは、耳が痛くなるほどの静寂だった。
仲穎の足元には、右目を完全に潰され、肘の先から左腕を無残に失った良が崩れ落ちていた。衣服を真っ赤に染め上げ、浅い呼吸を繰り返す良は、生きているのが不思議なほどの重傷を負い、主君の傍らで泥の中に横たわっている。さらにその近くには、襲撃の最中に無数の矢を受けて力尽きた、忠犬サミルの動かなくなった遺体があった。
仲穎は肩を激しく上下させ、血に濡れた剣を握りしめたまま、すぐさま正面門へと走った。
そこにあったのは、言葉を失うほどに凄惨な光景だった。
都の手練れたちの死骸が幾重にも積み重なったその中心で、ガルが倒れていた。
押し寄せる多数の刺客をその肉体ひとつでせき止め、無数の凶刃を骨で受け止め続けた羌族の若きリーダーは、門の敷居を血で赤く染め上げ、ピクリとも動かない。最期まで敵に背を向けず、正面から凶刃を受け止めきっての、凄絶な戦死だった。
あの大死闘から無事に帰還し、夕暮れにはあれほど穏やかな平穏の中にいた男たちが、いまや一人は五体を損ねて血の海に沈み、一人は命を失って門前に横たわっている。
仲穎は血塗られた剣を地面に落とし、震える両手でガルの冷たくなり始めた肩を掴んだが、その口からは声にならぬ呻きが漏れるだけだった。
「……あ、たく……」
かすれた、しかし聞き間違えようのない声が、門の外の暗がりから聞こえた。
仲穎がハッとして顔を上げると、泥まみれの地面を這い、生々しい血の尾を曳きながら、リアがようやく門前へと辿り着いたところだった。衣服は背中から赤黒く染まり、その身体には一目で致命傷と分かる深い刃傷が刻まれている。
「リア……! リアァッ!!」
仲穎は狂ったように駆け寄り、冷たくなりかけた彼女の身体を泥の中から抱き上げた。
「阿卓……みんな、は……弦児、は……?」
息も絶え絶えに我が子の安否を気遣うリアに、仲穎は涙を流しながら必死に言葉を返した。
「大丈夫だ、みんな無事だ! 王綏も、華児も、お前が産んでくれた弦児も、木蓮がトトに乗せて街の外へ逃がしてくれた! だから安心しろ、リア!」
夫の口から告げられた言葉に、リアの白磁のような顔に、ふっと微かな、しかし心からの安堵の微笑が浮かんだ。焦点の定まらない瞳で仲穎の顔を真っ直ぐに見つめると、残された最後の力を振り絞って、夫の頬にそっと手を伸ばす。
「よ、よかった……。だから、阿卓……泣かないで……生きて……ごめんね……弦……」
それが、彼女の最後の言葉だった。
愛する者たちの無事をすべて確かめ、満足したかのように、リアの瞳から光が失われていく。伸ばされていた手が力なく滑り落ち、仲穎の腕の中で、彼女は静かに息を引き取った。
ガルの遺体、重傷の良、サミルの死骸。そして、冷たくなったリアの亡骸を抱きしめたまま、仲穎は夜空に向かって、言葉にならない絶叫をあげるのだった。




