第四十五回
夜更けの王渙の屋敷は、重苦しい静寂に包まれていた。
突然訪ねてきた婿の仲穎から、差し出された二つの帳簿と横取りの証拠を突きつけられ、王渙は一瞬だけ表情を強張らせた。しかし、すぐに温和な笑みを浮かべ、深く息を吐いてみせた。
「……そうか。知らぬ間に、これほどの数字の歪みが生まれていたのだな。現場の商人たちに、苦労をかけていたか」
王渙は殊勝な態度で帳簿を閉じ、仲穎の目を真っ直ぐに見つめた。
「よくぞ、役所に告発などせず、私に直接伝えてくれた。お前の誠実さと、婿としての情誼に感謝する、仲穎。これからはすべて実務を正しく改めよう。二度とこのような不正はさせぬと約束する」
「……分かってくださると思っておりました。ありがとうございます、父上」
仲穎は安堵の表情を浮かべ、心から頭を下げた。やはり第二の父上は、話の分かる高潔な文官であったと、自らの馬鹿正直な誠意が通じたことを純粋に喜んだのだ。
だが、その足元で拝礼する仲穎を、王渙は張り裂けそうな胸の内で見つめていた。
(すまない、仲穎……本当にすまない……!)
王渙の胸の内は、どす黒い焦燥と罪悪感で焼き尽くされようとしていた。
彼は、念願である都(洛陽)への転属を勝ち取るため、権力を握る宦官たちへ莫大な献金(賄賂)を送り続けていた。その金の出処こそが、臨洮の交易品から間引いたこの六割の収益だったのだ。
自身の文官としての残り時間はもう限られている。ここで利益の横取りを止めれば、次の献金が滞り、これまでの苦労も、都へ上る最後の機会もすべてが水の泡になる。まだ都からの正式な勅使は届いていない。あともう少しなのだ。焦りに背中を押され、王渙にはここで引くという選択肢はなかった。
「夜道は危険だ。今夜はもう遅い、我が家に泊まっていくといい。お前のために、美味い酒を用意させよう」
王渙は、かつて仲穎の父が亡くなった折に「第二の父として頼ってくれ」と告げたあの日のように、優しい手つきで仲穎の肩をぽんぽんと叩いた。
「お気遣いありがとうございます。ですが、屋敷で王綏とリアが心配して待っておりますので、今夜はこれで失礼いたします」
仲穎はどこまでも礼儀正しく一礼すると、晴れやかな顔で部屋をあとにし、再び愛馬へと跨った。
屋敷の奥で一人残された王渙は、行灯の光に照らされながら、ゆっくりと顔を覆った。
仲穎への申し訳なさで手が小刻みに震える。だが、一度手を染めてしまった都の眠れる仕組みの闇から、今さら抜け出すことなどできはしないのだ。
「すまない、仲穎……。だが、私はどうしても都へ行かねばならんのだ……」
王渙は涙を滲ませながら、震える手で私兵の頭領を呼び寄せ、闇の中で冷徹な指示を出し始めた。すべては、自らの焦燥と執着を果たすためであった。




