第四十三回
陽が完全に落ち、臨洮の邸には夜の静寂が訪れようとしていた。
昼間の賑やかさは鳴りを潜め、良と木蓮の完璧な内政によって、邸の者たちは皆、それぞれの部屋で穏やかな休息の時を迎えている。
そんな中、中庭ではガルが愛馬ザルマの手綱を引き、門へと向かっていた。さきの大死闘を共に生き延びた街の仲間たちと、今夜は浴びるように酒を飲み明かす約束をしていたのだ。
「じゃあな、仲穎。今夜は美味い取り分で、ザルマにも最高のまぐさを奢ってやるからな」
ガルは相棒の赤毛を嬉しそうに叩き、夜の街の喧騒へと消えていく。
彼らが邸をあとにしたことで、主屋に残された静寂はよりいっそう深いものとなった。
主屋の一室では、行灯の柔らかな光に照らされながら、仲穎が一人で机に向かっていた。
目の前に広げられているのは、役所の文官に頭を下げ、「今夜中に返すこと」を条件に無理を言って借り受けてきた公式の交易帳簿だ。
市場の商人たちから受けている「不可解な免税と税制の歪み」への苦情――現場の武官としてそれを上の仕組みへと上申するためには、どうしても職権の壁を越えて公式の数字を検証し、証拠としての裏付けを揃える必要があった。
ふと、仲穎は机の傍らに置かれたもう一冊の冊子に目を留めた。
夕方、リアが縁側で弦児を膝に抱きながら筆を走らせていた交易の帳簿だ。
リアは普段、良と市場へ買い出しに出かけるついでに個人で小さな交易を営み、董卓一家の財政を裏から支えていた。そのため、この帳簿には臨洮の市場における寸分の狂いもない、生きた流通記録が記されている。
「……ん?」
何気なくそのページをめくり、公式の帳簿の数字と見比べた瞬間、仲穎の手がピタリと止まった。
リアの帳簿にある、市場における実際の取引価格と利益。
それに対し、いま役所から借りてきた公式の収益の数字。
見比べるほどに、その二つの数字には決定的なズレがあった。民間の市場ではこれほど莫大な利益が生まれているというのに、役所の国庫に入るべき収益の数字は、その半分にも満たない。
仲穎の背中に、冷たい汗が伝う。
これは単なる文官たちの計算ミスではない。国に納められるべき交易品の収益を、組織的に横取りしている何者かがいる。
仲穎は一度きつく目を閉じ、それから静かに部屋の扉を開けた。
「リア。……ちょっと来てくれ」
廊下に響く夫の低い声に、小さな足音が近づいてくる。部屋に入ってきたリアは、いつになく強張った仲穎の表情を見て、小さく息を呑んだ。
仲穎は机の上の二つの帳簿を指し示す。
「リア、お前のこの帳簿の数字に間違いないか。特に、この数ヶ月の交易品の利益だ」
「ええ、間違いようがないわ。良と一緒に、市場の荷の動きをすべてこの目で確かめて書き留めたものだから。……阿卓、これがどうかしたの?」
そのとき、開け放たれたままの扉の向こうから、衣の擦れる微かな音が聞こえた。
「あなた、夜遅くにそんなに深刻な顔をして、どうなさったのですか?」
怪訝に思った王綏が、様子を見に部屋を訪れたのだ。
仲穎は一瞬躊躇したが、隠し通せる段階ではないと覚悟を決め、二人を机の前に招き寄せた。
「役所から借りてきた公式の帳簿と、リアの帳簿だ。どうしても数字が合わない。誰かが意図的に交易品の収益を間引きしている。だが、武官の俺では、奴らがどうやってこの仕組みを役所に通しているのか、その手口が掴めないんだ」
その言葉を聞いた瞬間、二人の妻たちの目が、それぞれの才覚を宿して鋭く輝いた。
「阿卓、私が計算してみるわ。市場の本当の適正価格が弾き出してみる」
「……では私は、公式公文書の記述を精査いたします。都の文官たちが使う、免税や監査をすり抜けるための隠語や特権の記述なら、心得があります」
計算に秀でたリアが、筆を手に市場の流通量と利益の差額を弾き出していく。一方で、文書の扱いに長けた王綏は、公式帳簿の裏に隠された複雑な法規の歪みを読み解いていく。
二人の圧倒的な内助の才が、官僚機構の分厚い闇を引き裂いていった。
「出たわ。全体の利益の『六割』が、役所の国庫に入る手前で綺麗に消えている。これは組織的な横取りよ」
「理由が分かりました、リアさん。ここに特殊な免税措置の特権印が押されています。この印があれば、役所の監査の目を合法的にすり抜け、特定の個人口座へ利益を流し込むことができる……。そして、この決済を可能にした文官の署名は――」
真実を突き止めた王綏の手が、ある一箇所の署名の上で、ピタリと凍りついた。
――王渙。
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
横取りの巨大な仕組みを作り上げ、臨洮の富を貪っていた黒幕。それは、他でもない王綏の養父である王渙だった。
「……養父、さま……?」
王綏の顔からみるみるうちに血の気が引いていく。その手が、小刻みに震え始めた。
事態の残酷さに気づいたリアもまた、息を呑んで王綏の肩にそっと手を置いたが、かけるべき言葉が見つからない。
仲穎は、白磁のような顔を青ざめさせる正妻を、ただ静かに見つめることしかできなかった。




