第四十二回
血煙と怒号が渦巻く戦場をくぐり抜け、仲穎、ガル、そして良の三人がようやく臨洮の邸へと帰還した。
全身に敵の返り血と泥を浴び、鎧に深い傷を刻みつけながらも、その足取りには死線を越えた者だけが持つ、独特の重みと確かな生の実感が宿っている。
だが、屋敷の敷地へ一歩足を踏み入れた瞬間、戦場の張り詰めた空気は、静かな平穏のそれへと一気に塗り替えられていった。
特に、従者である良の生真面目さは、凄絶な戦いの直後であってもいささかも揺るがなかった。戦場では絶対の盾として仲穎の傍らを死守した男が、帰着するなり、泥に汚れた戦装束をすぐさま手際よく着替えると、休む間もなく侍女頭の木蓮のもとへと駆け寄る。
「木蓮さん、遅くなってすみません。すぐに手伝います」
「無事でよかったわ、良さん。さあ、溜まっている雑用を片付けてしまいましょう」
二人は互いにさん付けで呼び合いながら、阿吽の呼吸で水汲みや薪の整理といった日常の雑務を淡々と、しかしどこか嬉しそうにこなし始めた。完璧な内政で邸を守る二人の手際によって、戦の余韻はみるみるうちに日常へと溶けていく。
一方、中庭では仲穎とガルが、ようやく戦の緊張から解放されたように、肩の力を抜いて和やかに言葉を交わしていた。
ガルは愛馬のザルマの元へと歩み寄り、その美しい赤毛を愛おしそうに何度も撫でた。そのまま、中庭の木柵に沿ってゆっくりと歩かせる。
すると、その気配を察したのか、普段は人間を乗せることすら頑なに拒むほど獰猛な汗血馬トトが、柵の向こうからゆっくりと歩み寄ってきた。トトは荒い息を吐きながらも、ザルマの首筋にそっと己の鼻面を寄せる。ザルマもまた、気高く澄んだ瞳でその親愛を受け入れ、低く優しく嘶いた。仲穎がその首を抱き込んで呼吸を合わせたあのトトが、穏やかな表情を見せている。
そんな中庭の微笑ましい様子を、母屋の縁側から温かく見つめる家族の姿があった。
縁側には、凛とした百合の佇まいをまとった正妻の王綏と、側室のリアが並んで腰掛け、穏やかな団欒の時間を過ごしていた。王綏は隣で機嫌よく声をあげている一歳半の長女・華児の頭を優しく撫で、その小さな手を引いてやりながら、無事に戻った夫たちの姿に安堵の笑みを浮かべている。主母としての圧倒的な器で一族を融和させる彼女がそこにいるだけで、邸全体に深く落ち着いた平穏が満ちていた。
リアの膝の傍らに広げられているのは、日課である交易の帳簿だ。
忙しなく動き回る良と木蓮。中庭で馬を交えて談笑する仲穎とガル。そして隣で優しく微笑みかけてくれる王綏。
さきの大死闘がまるで嘘のように流れる、温かく愛おしい日常の光景に、張り詰めていた胸の奥がじんわりと解きほぐれていく。リアは生まれたばかりの息子・弦児を、愛おしそうにひょいと抱き上げ、自分の膝の上へと迎え入れた。
すとんと収まった我が子は、柔らかく、そして心地よい重みを持っている。リアは片腕で弦児の小さな体を包み込むように抱きすくめ、その背中をぽんぽんと優しくあやした。王綏もその様子を見て、膝の上の弦児へと愛おしげな視線を向ける。
最高の団欒の温もりを肌に感じながら、リアは再び中庭の光景へと視線を戻し、ふっと唇を綻ばせた。
「へえ、あのじゃじゃ馬トトが、初対面の牝馬にこんなに早く心を開くなんてね」
その声は、静かな庭の空気に溶けるように穏やかだった。隣の王綏も、リアの言葉に同意するように「本当ね」と小さく優雅に微笑む。
呟きを終えると、リアは心地よい我が子の重みを腕に感じながら、再び交易の帳簿へと視線を落とした。手にした筆を硯で軽く整えると、白い紙の上へとさらさらと滑らせ、静かに日課の記入を再開するのだった。




