第四十回
「――伝令! 臨洮北方の境界より、異民族の不正規混成部隊、およそ三千が侵攻! 略奪を行いつつ、こちらへ向かっています!」
伝令の悲鳴が、治安維持部隊の本陣に突き刺さった。
数において漢軍は圧倒的に不利。本陣の誰もが顔を強張らせるなか、二十三歳の部隊長・董仲穎は、静かに立ち上がった。
(紙の上の兵法書など焼き捨ててしまえ、仲穎殿)
最長老の低く掠れた声が、脳裏で蘇る。
(軍勢を人間の集まりと思うな。それは一本の糸で繋がった、巨大な一つの獣だ。トトを調教するように、直感でその呼吸を掴め)
仲穎は息を吐き、机の上に置かれた包みを解いた。現れたのは、骨のように不気味な白銀の地肌に、漆黒の文様が走る金属製の頬あて――リアから手渡された、あの『骸隻の面』だった。
「仲穎, それを……?」
背後に控える馬元義が、怪訝そうに声を上げる。
仲穎は答えず、仮面を顔に当てた。兜の緒を顎の下でキュッと強く結び、鉄面を固定する。
その瞬間、本陣の空気が凍りついた。
目の下から顎までを無機質な輪郭に覆われた仲穎から、それまでの人間味が、一滴残らず消え失せていた。口元の呼吸用スリットが、まるで敵を嘲笑う死神の輪郭を象っている。
仮面を纏った瞬間、仲穎を縛っていた照れの枷が、完全に消滅した。リアの愛が、長老の教えが、彼の「野生の直感」と寸分の狂いもなく完全に同調したのだ。
「……元義。歩兵を横一列に並めるな。楔形に変えろ」
仮面の奥から響く声は、驚くほど静かで、冷徹だった。
「敵は略奪に目を眩ませた烏合の衆だ。群れ全体の呼吸が乱れている。中央に一点の恐怖を叩き込めば、その感染は一瞬で尾まで届く」
「っ、あ、ああ……!」
いつもなら大声で怒鳴るはずの親友の、底知れぬ変貌に、元義は背筋に冷や汗を流しながら頭を下げた。
戦場に、白と黒の仮面をつけた死神が立つ。
漢軍を「ひとつの巨大な獣」として捉えた仲穎の指揮は、これまでの迷いが嘘のように、恐るべき正確さで戦場を支配し始めた。
仲穎は一歩も動かず、ただチェス盤を俯瞰するように冷徹に指図を下す。その傍らには、影のように付き従う従者・良の巨体があった。良の手には、身の丈ほどもある無骨な大楯が握られている。戦場における良の役割は、主人である董卓を五体満足で帰すこと――それ以外にない。
「良。前方の防陣が邪魔だ。こじ開けろ」
「……!」
仲穎の短い拒絶の声に、良が初めて動いた。董卓の指揮の障害となる敵の防衛線を突破するため、大楯を構えて正面から突撃する。防御を固めていた敵の盾列に対し、良はその規格外の怪力を爆発させ、手にした大楯をそのまま叩きつけた。凄まじい衝撃音と共に、密集していた敵の集団がまとめて後方へと吹き飛ぶ。
文字通り「道を切り拓いた」良は、深追いすることなく即座に董卓の傍らへと引き戻り、再び鉄石の沈黙を守る絶対の壁となった。
仲穎の読み通り、防陣を粉砕された敵の先遣隊が爆発的な恐怖に包まれると、その怯えは波紋のように三千の軍勢全体へと伝染していく。崩れゆく敵群に対し、仲穎はアランから譲られた強弓『骨喰』を引き絞った。
その瞬間、董卓の命を狙う敵の流矢が、本陣へ向けて一斉に降り注ぐ。だが、仲穎は視線すら動かさない。狂いなく狙いを定める主人の前に、良が音もなく大楯を差し出し、ガガガガッ!と激しい金属音を立てて全ての矢を完璧に弾き返した。
主人が用兵に没頭する間、向かってくるあらゆる刃と矢を、良はその大楯で一滴残らず防ぎきる。この二人の絶対的な信頼関係と、邸を守る木蓮の寸分の狂いもない差配により、董卓の足元は決して揺るがない最強の基盤となっていた。
「今だ。獣の尾を叩き潰せ。一兵も逃すな」
良の防護に守られた仲穎が、満を持して『骨喰』を放つ。放たれた矢が風を裂き、敵の退路を完全に断った。
数の不利を微塵も感じさせず、三千の敵軍は瞬く間に壊滅、あるいは敗走へと追い込まれていく。
「勝った……。あの数を、これほどの短時間で……」
返り血を浴びた馬元義が、呆然と戦場を見つめ、それから畏怖を孕んだ目で仲穎を振り返った。
戦火の煙が巻くなか、仲穎はゆっくりと仮面の紐を解いた。
仮面を外したその下から現れたのは、息を荒くし、どこか疲れ切った、しかし元の優しい仲穎の素顔だった。良は静かに大楯を背に引き、何事もなかったかのように主人の手拭いを用意し始める。
「……元義殿、怪我はないか?」
「あ、ああ……お前、その仮面は……」
「リアがくれたんだ。これをつけると、不思議と、迷わずに済む」
仲穎は不器用に笑い、白黒の仮面を愛おしそうに見つめた。
この『骸隻の面』を纏う時だけ、彼は圧倒的な恐怖と直感で万の軍勢を支配する。そのあまりにも底知れない変貌ぶりは、のちに振り返れば、彼が真のカリスマへと完全覚醒した決定的な瞬間であった。しかしその仮面を外せば、家族の帰りを待つ一人の優しい男に戻るのだ。
仲穎は手拭いで顔の汗を拭い、再び『骨喰』を背負うと、遠くの街並みへと視線を向けた。
あの家には、王綏が守る穏やかな日常があり、リアが名付けたトトがいななき、華児と弦児の新しい命が息づいている。
守るべき一族の温もりをその背に感じながら、若い部隊長は、乾いた涼州の土を踏みしめ、次なる戦いへと静かに歩みを進めるのだった。




