第三十九回
「――ぬうっ、大人しくしろ、トト!」
臨洮の董家の邸、その中庭。職務の休みを利用して長老のもとから戻った仲穎は、着物の上半分をはだけさせ、大汗をぬぐいながら咆哮していた。
目の前でいななき、前足を跳ね上げているのは、3歳になったばかりの赤毛の若駒。未だ人を乗せぬ猛獣のような野生の汗血馬だ。「トト」――その燃えるような赤毛を見たリアが、愛おしそうにそう名付け、今では一族皆がそう呼んでいる。
仲穎は、昼日中に最長老から授かった言葉を反芻していた。
『お前さんは、野生の馬の首を素手で抱え込み、その呼吸を読み取れる男だ』
『巨大な一つの獣の呼吸を掴め』
これまではただ力任せにねじ伏せようとしていた。だが今は違う。仲穎は若駒の荒い息遣い、筋肉の強張り、暴れるタイミングの「呼吸」を、己の野生の直感でじっと探る。
ここだ、という瞬間に肉薄し、太い両腕でトトの首をがっちりと抱え込んだ。馬が激しく狂ったように暴れるが、仲穎は力を込めるのではなく、己の鼓動を馬の呼吸と同調させるように身を委ねた。すると、いつもなら延々と暴れ狂うはずのトトが、驚いたように鼻を鳴らし、ほんの一瞬だけ、その頑なな首の力をふっと抜いたのだ。
「……はは、掴めたぞ。これか」
仲穎は興奮に目を輝かせ、荒い息を吐きながらトトの首筋を優しく叩いた。軍勢という巨大な獣を動かすための決定的なヒントを、今、この荒駒との格闘のなかで確かに肉体が記憶した。
影のように現れた従者の良が、鉄石の沈黙を守ったまま、汗を拭くための布を手渡してくる。邸には一歳半の長女と生まれたばかりの男児がいるため、侍女頭の木蓮は母屋を離れられない。良は主人の意図を察し、一切の言葉を発せぬまま一人で荷車を片付け、黙々と力仕事をこなしていく。
仲穎が汗を拭い、呼吸を整えて寝所へ戻ると、正妻の王綏が、2歳になる長女の華児を愛おしそうに抱きながら、柔らかく微笑んだ。
「お帰りなさい、あなた。ほら、華児、お父様がお戻りですよ。中庭で、またトトと格闘していらしたのですね」
百合のような優美な気品を纏う王綏は、リアを正式に「側室」として認め、一族の秩序と融和を完璧に処理した圧倒的な器の持ち主だ。彼女の前に出ると、仲穎の張り詰めた肩の力がふっと抜ける。
「ああ。……リアの様子はどうだ?」
「ええ。弦児も、リアさんも元気にしています。今はあちらの部屋で、琵琶を少し爪弾いていらっしゃいましたよ」
王綏の言葉に促され、仲穎は静かに廊下を渡り、側室となったリアの部屋の扉を叩いた。
部屋の中からは、太陽と琵琶のイメージを纏う女性――リアが、秋に生まれたばかりの我が子、弦児をあやしながら、優しい眼差しで迎え入れた。
「阿卓。……今日のお顔は、いつもより少し明るいね」
リアはそう言って、嬉しそうに微笑んだ。
仲穎はベッドの端に腰掛け、大きな手で自分の顔を少し擦った。
「長老に、軍勢を動かすための面白い術を教えてもらってな。さっき庭で試したら、トトがほんの一瞬、俺に身を委ねたんだ。兵法書を睨んでいた時より、ずっと視界が広がった気がする。……だがな、リア」
仲穎は少し視線を落とし、不器用に眉根を寄せた。
「長老に、軍勢を動かすための面白い術を教えてもらってな。さっき庭で試したら、トトがほんの一瞬、俺に身を委ねたんだ。兵法書を睨んでいた時より、ずっと視界が広がった気がする。……だがな、リア。いざ次の討伐戦で、何千何万という軍勢の前に立つとなると、やっぱりまだ不安なんだ。長老の言う通りに野生の直感で叫ぼうとしても、生身の素顔のままでは、どうしても照れが出てしまってな。大将がそんな迷いを見せたら、軍勢という獣に一瞬で見透かされてしまう」
リアは弦児をそっと寝台に寝かせると、部屋の奥にある古い木箱から、包みを取り出した。それはかつて市場で、リアが不思議な魅力に惹かれてこっそりと購入し、大切に持っていた一点物の奇品だった。
「これを使って、阿卓」
リアが差し出したのは、木製製の頬あて――兜の緒と連動させて、目の下から顎までを覆う鉄面だった。
仲穎が息を呑む。その仮面は、骨のように無機質な白銀をベースとし、左右の頬から顎にかけて、鋭い漆黒の文様が非対称に走っていた。口元は呼吸用のスリットがありつつも、かすかに冷たい嘲笑を浮かべているように見える、底知れぬ凄みを持った造形だった。
「これは……」
「あなたのその優しさは、私にとって、そしてこのお家の最高の宝物。だから……戦場には、持っていかないで。戦場に出るときは、この仮面にあなたの照れをすべて預けていって。これをつければ、あなたは誰よりも強い、みんなを導く大将になれる。私は知っているよ、阿卓」
まるでこの時を待っていたかのように、鈍い光を放つ白と黒の仮面。
仲穎はその冷たくも肌になじむ堅木の質感を指先でなぞった。長老の言葉という大いなる楔、そしてリアの深い愛と願い。それらが、この不気味な頬あての中で、確かな覚悟へと変わろうとしていた。
「……ああ。預けていくよ、リア。俺のすべてを」
翌日、臨洮の境界に、大規模な略奪部隊が迫っているとの凶報が届く。
出陣の太鼓が鳴り響くなか、仲穎はついに、この【骸隻の面】を顔に纏うことになる。




