第三十八回
数日後、治安維持部隊の職務が休みとなった、よく晴れた日の昼下がりのことだった。
仲穎はガルの案内に従い、馬を駆って臨洮の遥か外れへと向かっていた。どこまでも続く乾いた涼州の荒野。遮るもののない広大な青空の下、切り立った岩壁の奥に、いくつかの天幕が静かに佇んでいた。お役所の制服を脱ぎ、動きやすい私服を纏った仲穎は、一瞬だけ役人の立場を忘れ、涼州の乾いた風を胸いっぱいに吸い込んだ。
天幕の中に通されると、そこには獣皮の敷物の上に十数人の老人が座していた。衣服の意匠は様々だが、誰もがこの過酷な荒野を生き抜いてきた異民族の長老たちだ。中央に座す一際小柄で、木の根のような皺に覆われた最長老の老人が、濁りのない眼光を和ませて仲穎を見つめた。
「よく来たな、我が部族を飢えの苦しみから救ってくれた恩人よ……いや、私用の場だ、仲穎殿と呼ばせてもらおう。まずはそこの敷物へ腰をかけて、温かい羊の乳でも飲んでくれ」
老人はかすれた、しかしどこか気品のある声で、穏やかに微笑んだ。
仲穎は休日の身ではあったが、長老たちの放つただならぬ威厳に、居住まいを正して礼を尽くした。
「お招きいただきありがとうございます、長老。ガル殿の案内で参りました。……先日の兵糧の件は、武官としての職権を超えた不調法。皆様にお礼を言われる筋合いのものではありません」
「まぁ、そう硬くなるな。風の噂で聞いたぞ、仲穎殿。お前さんのところの立派な正妻殿が、リア殿を正式に側室として迎え、この秋には健やかな男児を授かったそうだな。一族の融和を美しく処理する奥方をお持ちだ。誠に喜ばしい」
長老の温かい労いに、仲穎はふっと張り詰めた肩の力を抜き、人懐っこい苦笑いを浮かべた。
「ええ……。綏の圧倒的な器量には、俺も頭が上がりません。おかげで邸の中はいつも穏やかで、俺は毎日、兵糧の計算や現場の苦情処理に安心して頭を抱えておられますよ。……お恥ずかしい話ですが、重税に苦しむ民の声を聞いても、俺たち武官の職権では既存の仕組みに介入できず、お役所に上申するのが精一杯でして」
仲穎が漏らした現場の苦悩を聞き、最長老は優しく深く頷いた。
「やはりな……。お前さんがくれた兵糧で、我が部族の子供たちは冬を越せる。だがな、仲穎殿。お前さんが仕える洛陽の天子や役人どもは、儂たちが飢えようが、お前たち漢族の貧民が凍えようが、紙の上の数字しか見ぬ。……お前さんのような男がいつかその牙で、都の眠れる仕組みを噛み破り、洛陽の者どもを驚天させる日が来るのを、儂は見てみたいものだ」
天幕の隙間から差し込む眩しい昼の光のなかで、未来を照らすような言葉が投げかけられる。
仲穎は一瞬、息を呑んだ。だが、すぐに頭を掻いて、いつもの無理をして凄みを出そうとする時の苦笑いを浮かべた。
「ハハハ……、長老、勘弁してください。そいつはとんでもないご冗談だ。俺はこれでも漢朝から給金をもらっている身ですからね。めっそうもない、首が飛びます」
「ふふ、冗談か。お前さんは実にお堅いな」
最長老は目を細めて朗らかに笑った。その温和な顔の奥には、全てを見透かすような知恵が宿っている。
「……いや、お前さんの目は誤魔化せんよ。漢の法度という窮屈な楔に縛られ、現場の涙を見ては一人でもがいている。……だがな、仲穎殿。お前さんほどの器なら、いつかその楔を内側からぶち破り、漢も羌も関係なく、天下の民すべてを救えそうなものをな!」
「っ……」
仲穎は言葉を失った。
一人の男として、天下を救う大器として真っ直ぐに背中を押された。その温白くも重い言葉は、仲穎の胸の奥深くに熱い塊となって突き刺さる。
今のまま、漢朝のルールの中にいては誰も救えない――その不都合な真実が、頭の中で驚きと共に鳴り響いた。
仲穎は視線を落とし、小さくため息をついた。
「……救う、ですか。今の俺には、部下たちの兵糧の計算や、何千という軍勢をどう動かせばいいのかすら分からず、毎日兵法書を睨んでは頭を抱えている始末ですよ。天下を救うなど、夢のまた夢だ」
すると、最長老はフハハと愉快そうに笑い、仲穎の肩を節くれ立った手でポンと叩いた。
「紙の上の兵法書など焼き捨ててしまえ、仲穎殿。漢朝の戦い方は、兵を石や木のように四角く並べる。だから応用が利かんのだ。……我ら荒野の生きる術を、儂が教えてやろう」
「荒野の、生きる術……?」
「数千、数万の軍勢を『人間の集まり』と思うな。それは一本の糸で繋がった『巨大な一つの獣』だ。頭が動けば尾が振れる。敵が怯めば、その恐怖は風のように群れ全体へ伝染する」
親しみやすい長老の言葉が、仲穎の脳細胞を心地よく揺さぶる。
「お前さんは、野生の馬の首を素手で抱え込み、その呼吸を読み取れる男だ。軍勢も同じ。形に囚われるな。軍勢という巨大な獣の『呼吸』を、お前さんの直感で掴み、儂らの知る荒野の喉鳴らし一つで手懐けてみせよ」
軍勢は、ひとつの巨大な獣。
馬を乗りこなすように、万の軍勢の呼吸を掴んで、己の肉体として動かす――。
現在進行形で赤毛の若駒と格闘し、その首を抱え込んで調教している仲穎にとって、そのアドバイスは和やかな雑談のなかで霧が晴れるような、新鮮な衝撃だった。
天幕を出て、どこまでも広がる昼下がりの涼州の荒野を馬で帰りながら、仲穎の胸はこれまでにない高揚感で脈打っていた。
頭を悩ませていた兵法書の霧が、長老の一言で見事に晴れたのだ。
「よし……。帰ったら早速、あの赤毛の若駒の首を抱え込んで、呼吸の合わせ方を試してみるか」
仲穎は愛馬の腹を軽く蹴り、晴れやかな視界が広がる臨洮の街へと、軽快に馬を走らせるのだった。




