第三十七回
延熹九年(西暦一六六年)の秋、涼州の風はすでに刃のように冷たかった。
臨洮県の治安維持部隊を率いる隊長・董仲穎(董卓)は、薄暗い兵糧蔵の中で、木簡に刻まれた数字を睨みつけながら頭を抱えていた。23歳の若き肉体は武人として申し分なく仕上がっていたが、軍の運用や兵糧の計算という「文官の領域」の壁に、日々激しくもがいていた。
「……また合わない。なぜ乾肉の数と、兵の口数がこれほどズレるのだ」
古い兵法書をドサリと机に閉じ、仲穎は自分の大きな掌を見つめた。
戦場で兵を動かす時、彼は兵法書通りの陣形を指揮するのがどうにも気恥ずかしく、また上手くいかなかった。結局は己の「野生の直感」を頼りに、喉を引き裂くような大声で命令を叫ぶしかない。だが、本人の内面は「無理をして凄みを出していて、実に恥ずかしい」と、若さゆえの羞恥心に苛まれていた。
「仲穎、少し根を詰めすぎだ。全部お前一人の頭で抱え込むなと、前にも言ったろう」
声をかけてきたのは、同じく治安維持部隊の隊長を務める同い年の戦友、馬元義だった。彼は実直な目で仲穎を見据え、その肩を叩く。
「重税や免税の処理は文官どもの管轄だ。俺たち武官は直接税制に介入できず、現場で民の悲痛な苦情を聞いては上申するしかない。だが、お前が倒れては部隊が崩れるぞ」
「分かっている、元義殿。だが……」
仲穎が言いかけたその時、蔵の外から激しい怒号と、金属が擦れ合う不穏な音が響き渡った。
「襲撃だ! 羌族の群れが、裏手の搬入口から押し入ってくるぞ!」
悲鳴のような兵の叫び声に、仲穎の目が鋭く見開かれた。
彼は気恥ずかしくもがいていた自分を一瞬で吹き飛ばし、壁に立てかけてあった強弓「骨喰」をひったくった。
「元義殿、表の防衛線を任せる! 俺は裏へ回る!」
大股で兵糧蔵の裏手へと駆け抜けると、そこはすでに修羅場と化していた。
数十人の羌族の戦士たちが、手際よく兵糧の袋を運び出そうとしている。その先頭で、一際巨大な体躯を揺らし、漢兵を素手で投げ飛ばしている男がいた。
「ガル……!」
仲穎はその名を叫んだ。
ガルは仲穎の声に反応し、不敵な笑みを浮かべて振り返った。
「よう、仲穎! あの戦場以来だな! だが今日は商売じゃない。この蔵の糧食、すべて貰い受ける!」
ガルの手には、略奪のための武器ではなく、ただただ飢えを凌ぐための悲壮な決意が握られていた。
仲穎は「骨喰」に太い矢を番え、一気に引き絞った。弓が限界まで軋み、凄みのある風圧が周囲を巻く。しかし、仲穎の直感は、ガルの瞳の奥にある「私利私欲ではない狂気」を敏感に察知していた。
「ガル! お前ほどの男が、なぜ泥棒まがいの真似をする!」
「笑わせるな! 漢朝の役人が重税で俺たちの土地から全てを毟り取った! 冬を前に、俺の部族の子供たちが飢え死にしかけているんだよ! 奪わねば死ぬ、それだけだ!」
ガルが咆哮とともに突進してくる。
仲穎は矢を放たなかった。弓を投げ捨て、自らも野生の獣のように地を蹴ってガルに肉薄した。
ドゴォッ! と、肉体と肉体が激突する凄まじい衝撃音が蔵に響く。
ガルの重い拳が仲穎の頬をかすめ、仲穎の太い腕がガルの胸元を捉えた。二人は組み合い、泥の床を転がった。仲穎の規格外の怪力と鋭い直感は、ガルの予測を超える軌道でその巨体をねじ伏せていく。
「ぐっ……おおお!?」
「動くな、ガル!」
仲穎はガルの首を素手でがっちりと抱え込み、床に圧し付けた。
周囲の羌族の戦士たちが一斉に動きを止める。仲穎の呼吸は荒かったが、その眼光は冷徹ではなく、どこか悲痛だった。
「……本当に、部族の者が飢えているんだな?」
「……そうだ。殺せ、仲穎。だが、糧食だけは……あいつらに……」
ガルが悔しげに歯を食いしばる。
仲穎はしばらく沈黙した。お役所の融通の利かない法度が頭をよぎる。独断で兵糧を横流しすれば、文官たちからどれほど激しく叱責され、処罰されるか分からない。職権の壁は厚い。
しかし、仲穎の「野生の直感」が、彼の魂に直接叫んでいた。
――ここで掟に縛られてこいつらを殺せば、俺はただの漢朝の飼い犬だ。
「……良!」
仲穎が呼ぶと、影のように付き従っていた従者の良が、黙ったまま即座に倉庫の奥から荷車を引いて現れた。邸の力仕事を一手にこなす良は、主人の意図を察し、一切の言葉を発せぬまま一人で凄まじい手際を見せ、糧食の袋を次々と荷車へまとめ始める。
「ガル、その荷車の兵糧をまとめてお前の手下どもに運ばせろ。持てるだけ持っていけ」
「なっ……仲穎、お前何を!?」
ガルが驚愕の声を上げる。防衛線から駆け戻ってきた馬元義も「独断での分与はまずい!」と目を見開いたが、仲穎の決意に満ちた素顔を見て、それ以上の言葉を飲み込んだ。
「これでお前の部族の子供たちを死なせるな」
仲穎はガルの身体を解放し、立ち上がって不器用に笑った。
「ただし、これは俺の独断だ。お役所には、俺が不覚を取って奪われたと上申しておく。……だから、次はもっと上手く盗みに来いよ」
ガルは立ち上がり、呆然と仲穎を見つめた後、深く頭を下げた。
「仲穎……。お前という男は、やはり漢朝の窮屈な法度に収まるタマじゃない。この恩、生涯忘れん」
この身を賭した義挙により、ガルは仲穎の器量に魂の底から心服した。
しかし、この直後、仲穎を待っていたのは、文官(お役所)からの容赦のない激しい叱責と、既存の統治の仕組みという冷酷な現実の壁であった。もがく仲穎を見かねたガルは、ある夜、彼を「各地の異民族の長老たちが集まる秘密の会合」へと案内することを決意する。
そこでの出会いは、若き隊長を縛る窮屈な檻の格子を叩き壊し、彼を大いなる覚醒の道へと導く羅針盤となる。




