表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/86

第三十六回(西暦166年)

延熹九年(西暦百六十六年)、秋。

王綏が最初の子――愛らしい長女を出産してから、一年有余の歳月が流れた。


邸内では、一歳半になった長女が元気に歩き回り、董一族の居間には温かな活気が満ちていた。酒泉の実家から呼び寄せられた木蓮は、今や完全に邸内の家政を切り盛りし、無骨な良との言葉なき阿吽の呼吸で、主母である王綏の表の礼節と、裏の交易を完璧に支え合っていた。


しかしその影で、リアの心は深い暗雲に覆われていた。


あの激しい抱擁の夜から数ヶ月。婚姻の儀を未だ経ぬ日陰の身でありながら、正妻である王綏の了解も得ずに、阿卓の子を身籠もってしまった。それは漢朝の法度や礼節に照らせば、一族の秩序を乱す許されざる不義。阿卓を愛するがゆえの情熱の果てとはいえ、王綏に対する申し訳なさと恐ろしさは、リアの心を激しくさいなんでいた。


(このままこの家にいれば、一族に迷惑がかかる。……だけど、この子は命を懸けてでも護りたい)


リアは誰にも告げず、一人で邸を去り、砂漠の彼方で隠れて我が子を生み育てようと悲壮な覚悟を固めていた。食事を喉に通さず、邸の片隅で荷物をまとめている彼女の異変に、最初に気づいたのは木蓮であった。


「お嬢様、やはりリアさんの様子が変にございます。何やら重い負い目を抱え、今にもこの家を去ろうとされているかのようですが……」


木蓮の報告を受け、王綏は静かに帳簿を閉じた。1歳半の我が子を抱きながら、普段の毅然とした佇まいのままリアの部屋へと足を運ぶ。


戸を開けると、旅支度を整え、急いで荷物を隠そうとするリアの姿があった。王綏は静かに部屋へ入り、まっすぐに彼女を見つめた。


「リアさん。急に荷物などまとめて、どちらへ行かれるのですか」

王綏の静かな問いに、リアは一瞬だけ肩を震わせたが、すぐに大らかな微笑みをその顔に浮かべた。


「少し、西域の古い商売仲間から報せがありまして。新しく入る薬草の仕入れに、私が直接立ち会わなければならなくなったのです。これから数ヶ月、砂漠の向こうの部族のところへ行ってこようと思っています。邸のことは木蓮さんも良さんもいますから、何も心配はいりませんよ」


いつものように穏やかに語ってみせるリア。しかし、その声は微かに震え、額には冷や汗が滲んでいた。何より、阿卓のためならどれほど過酷な交易の旅にも同行させたはずの良を、今回は臨洮に置いていこうとしている。

王綏はその不自然な言い訳を黙って聞いていたが、リアが荷物を抱え直そうと一歩動いたその瞬間、彼女の纏うゆったりとした衣服の裾が微かに揺れ、その下に隠された不自然なふくらみを王綏の目が捉えた。


王綏は一歩、リアに近づいた。その凛とした眼差しが、リアの腹部へと注がれる。

「……仲穎の子ですね?」

王綏の静かな、しかし確信に満ちた一言に、リアは一瞬だけ丸い目を見張った。


しかし、すぐにふっと静かな微笑みを浮かべ、困ったように首を横に振った。

「……さすがは、王綏様。隠し通せるものではありませんでしたね。私の浅知恵など、あなたの前では形無しです」

リアの瞳には、すべてを失ってもこの子だけは一人で産み育てるという、国境なき荒野を生きてきた女の、冷徹なまでの強い覚悟が宿っていた。リアは旅の荷物をそっと置き、王綏の目を真っ直ぐに見つめて深く一礼した。


「言い訳はいたしません、王綏様。一族の法度を汚した罰は、どんなことでも受けるつもりです。阿卓への情愛に嘘はありませんが、あなたを傷つけるつもりもなかったのです。今すぐこの家を出て、二度と戻りません。だから……どうか、私の不義理のせいで、阿卓を責めたり、困らせたりはしないでやってください」


自分の犯した不義を認めつつも、決して卑屈にならず、ただ夫の立場を護るために潔く身を引こうとするリア。その気高き覚悟を見つめ、王綏は深く息を吐き出した。


漢朝の礼節に則れば、激怒し、彼女を家から叩き出すのが正妻の正義であった。しかし、王綏の脳裏には、かつて自分がこの家に輿入れてきたあの日、一歩下がって自分を「正しき主母」として立ててくれたリアの慎み深い姿、何より、夫が軍の運用に孤独に懊悩していた夜、自らの知恵を以て夫の魂を救い上げてくれたリアの情の深さが、鮮烈に蘇っていた。


(この人は、私欲で夫を奪ったのではない。夫を、この董一族という大河を護るために、自らを投げ打ったのだ)


王綏の百合の仮面が、静かに外れた。彼女は一歩前に出ると、リアの前に近づき、その震える細い手を、自らの両手で強く、直に握りしめた。


「何を仰いますか、リアさん」


王綏の口から出たその揺るぎない名前に、リアは驚愕して顔を上げた。王綏は、慈愛に満ちた、しかし一族を統べる強き主母としての眼差しをリアに向けた。


「この家の土台を支えてくれたのはあなたです。夫の孤独を救ってくれたのも、あなたです。あなたが身を引いて一人で苦しむなど、この私が、董仲穎の正妻として絶対に許しません。……あなたの産む子もまた、董一族の尊き血の子供です。この臨洮の城で、私たちが全員で護り、育て上げるのです」


その正妻としての圧倒的な器と覚悟に、リアはさすがに涙を堪えきれず、静かに、しかし深く王綏の胸に顔を埋めた。木蓮は何も言わずに温かい湯を用意するために台所へと走り、良もまた、阿吽の呼吸でリアが重い荷物を持たずに済むよう、邸内の雑用を黙々と片付け始めた。不意の授かりものであったが、董一族の城は、この女性たちの融和によって、真に揺るぎない一つの塊となったのである。


――それから数ヶ月、秋の夜更け。

いよいよ臨月を迎えたリアが、産室のなかで激しい陣痛とともに産気づいた。王綏の指示が響き、木蓮がテキパキと産室へと走る。


産室の外の庭で、仲穎はただ一人、じっと大河のような沈黙を保っていた。


この一年、彼はリアの言葉に従い、古い兵法書をすべて閉じ、荒野の風の匂いや敵の気配を肌で感じ取る、己の直感だけで軍を動かそうと試み続けてきた。


しかし、戦いが終わって役所の陣屋に戻るたび、仲穎は大きく肩の力を抜き、気まずそうに顔を赤らめて自らの大きな両手を見つめていた。自らの放った粗野な凄みが恥ずかしくてたまらなかったのだ。己の野生の直感を「大軍を支配する器」へと昇華させるには、今の素顔のままでは、あまりにも気恥ずかしさと若き迷いが勝ってしまっていた。未だ完成せぬ、もどかしくも実直な、雌伏の指揮官としての苦戦のただ中に、彼はいた。


その時、邸の奥から、静寂を切り裂くような力強い赤子の産声が響き渡った。

リアの命懸けの戦いが、今、新しい男児の誕生という奇跡となって結実したのである。


仲穎がハッとして産室の戸を見つめた瞬間、産室から出てきた木蓮が、汗を拭いながら深く、嬉しそうに一礼した。良もまた、庭の暗闇のなかで無言のまま、コクンと力強く一度だけ頷いてみせた。


我が子の産声を背に受けながら、仲穎は、三歳を迎えて調教の始まった赤毛の幼駒の手綱を静かに、しかし固く握りしめた。


未完の怪物の器と、新しき家族の本当の絆を胸に秘め、23歳になった仲穎は、これから訪れるであろう国境なき激動の戦線の足音を、涼州の乾いた風のなかに確かに感じ取っていた。

一族という名の大河が、静かに、しかし圧倒的な水量を湛えながら、次なる激流へと向かって動き出そうとする、雌伏の秋の夜であった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ