第三十五回
戦場(討伐)の夜が明けても、仲穎の胸に立ち込める暗雲は晴れなかった。
多くの兵を動かす重圧から、彼は声を張り上げて必死に書物の陣形を命令するものの、現場では兵が迷い、用兵の破綻を繰り返して苦戦を強いられていた。ガルの言いた『自分の直感を信じろ』という言葉の意味は分かっても、それをどう軍の運用に活かせばいいのか分からず、己の無力さに深く落ち込んでいたのである。
邸に戻っても、居間はいつもと違う慌ただしさに包まれていた。
正妻の王綏は、生まれたばかりの長女の夜泣きと育児に手一杯であり、新しく来た木蓮と共に、初めての我が子を護るための家政に追われている。凛とした百合の花のような王綏も、今は一人の母親としての限界のなかにあり、夫の内に秘めた懊悩を気遣うだけの、心と時間のゆとりはどこにもなかった。
夜更け、邸の片隅。
書庫の竹簡を睨みつけたまま、暗闇の中で一人、拳を握りしめて項垂れている仲穎の元へ、かすかな衣擦れの音が近づいてきた。
リアであった。
彼女は、王綏や木蓮が赤子の元で眠りについたのを見届けた後、静かに、温かい羹を盆に乗せて現れた。一歩引いた同居人の立場にいる彼女だからこそ、大河の威厳の裏で今にも焼き切れそうになっている仲穎の孤独を、誰よりも早く察していた。
「……阿卓。少し、お話しを聞かせてくれないかい」
リアは物静かに彼の傍らに座り、琵琶の弦を優しく弾くような声で語りかけた。
仲穎は最初、自らの弱みを見せるまいと黙秘を貫こうとしたが、リアの太陽のように全てを包み込む静かな瞳に見つめられ、ついに堰を切ったように、その大きな背中を震わせて吐き出した。
「……俺には、軍が動かせない。書物の通りに声を張り上げても、兵は惑い、野盗一人を捕らえるのにも苦戦する。ガルの言う直感など、文字の並んだ戦場では何の役にも立たない……!」
その若き指揮官としての、あまりにも生々しい生みの苦しみに対し、リアはふっと大らかな微笑みを浮かべた。私心のない真っ直ぐな瞳で彼を見つめ、その細い手を、仲穎の傷だらけの大きな手の上にそっと重ねた。
「阿卓は、漢の国の難しい本に、ご自分の器を無理に押し込めようとなさっている。そんな狭い竹簡の中に収まる男ではないでしょう。戦場の兵たちを文字で縛る必要はありません。荒野で見つめるその直感を、そのまま命令の代わりに叫べばいい。阿卓の放つ、大河のような恐ろしさと強さを、そのまま兵たちに信じ込ませるの。……それだけで十分なはずだよ」
そのリアの言葉は、完璧な正論を語る王綏にも、役所の同僚である馬元義にも言えなかった、荒野を生き抜いてきた西域の女ならではの、魂の救いであった。
文字に縛られていた仲穎の脳裏に、ガルの言葉と、リアの知恵が混ざり合い、霧が晴れるような激しい衝撃が走った。
張り詰めていた緊張が解け、己の器を理解してくれた唯一の理解者を前にして――仲穎は思わず、リアの細い身体を、その大きな両腕で激しく抱きしめていた。
「阿卓……っ」
驚きに目を見開くリアを、仲穎は無言のまま、しかし飢えた獣のように貪欲に、その熱い情愛のなかへと巻き込んでいった。それは、家と利害のために決められた婚姻の契りなどではない。朝廷の理不尽な法度に押し潰されそうになっている一人の男と、それを日陰から照らす太陽が、極限の夜に互いの魂の渇きを潤すために求め合った、密やかで、狂おしい夜の交錯であった。




