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第三十三回

市場から連れ帰られた赤毛の幼駒が、邸の裏庭で激しくいなないていた。

その獰猛な野生の声を背に、董家の居間では、冷徹な静寂のなかで二人の女性が対峙していた。


「リアさん。正気ですか」

王綏は、畳まれた帳簿の上に白く細い指を置き、凛とした百合のごとき佇まいでリアを見据えた。豪族の娘として生きてきた彼女の背筋はまっすぐに伸び、その瞳には漢人としての強い危機感が宿っている。


「国境を侵して我が街を荒らす羌族に対し、役所の許可なく勝手に食料や酒を融通するなど、朝廷の法度が許しません。もし他の一族や官吏に知られれば、董一族は敵への兵糧供与、すなわち内通の罪で族滅されます。それに、一度甘い顔をすれば、彼らは次には武器を持ってこの邸を襲いに来ます」

王綏の言葉は、漢朝の秩序を叩き込まれた彼女なりの正論であり、何よりも夫である仲穎とこの家を護りたいという、頑ななまでの正義から出たものであった。


対するリアは、動きやすい西域の衣服のまま、裏庭の幼駒へと向ける手綱を静かに整理していた。彼女は怒るでもなく、大らかな太陽のような眼差しを新参の正室へと向けた。

「王綏様。あの子たちが街を襲うのは、法を破りたいからじゃないよ。そうしなければ、部族の子供たちの冬を越せずに死んでしまうからさ。ここで取引を断れば、あの子たちは明日、生きるためにまた牙を剥いてこの街を襲う。法を守って殺し合うのと、取引をして襲撃を止めるの、どちらがこの家と臨洮の民を本当に守ることになると思う?」


「それは……」

王綏は言葉に詰まった。彼女の学んできた儒教の教えや朝廷の法度には、飢えに瀕した異民族とどう共生するかという泥臭い現実は書かれていなかった。リアの言葉には、机上の空論を吹き飛ばす、荒野を生き抜いてきた者ならではの実利の重みがあった。


二人の言い分は、どちらも一族を想うがゆえの正義であった。


その緊迫した空気のなかへ、役所から帰還した仲穎が静かに足を踏み入れた。軍を率いる過酷さに苦戦しながらも、廊下で馬元義から聞いた言葉が、彼の胸に深く残っていた。


『全部自分で解決しようとするな。時には、他人を信用して任せることも大事だぞ』

仲穎は、並び立つ二人の妻を見つめた。


王綏の持つ、漢朝のシステムを逆手に取る教養と生真面目さ。リアの持つ、国境に縛られない西域の知恵と生存の感性。

(一人で全てを背負う必要はない。この二人の正義を、俺という大河のなかで交じり合わせればいい)

仲穎は地を這う大河のような落ち着きを以て、二人の間に言葉を落とした。


「綏の言う通り、法を無視してただ施すだけでは、役人としての俺の立場が死に、一族を危機に晒す。だが、リアの言う通り、飢えた連中を放置すれば、いずれ俺たちは血を流して殺し合うことになる。……ならば、双方の知恵を合わせろ」

仲穎は王綏を見据えた。


「綏、お前の知識で、この食料の移動を『部隊の軍糧の廃棄処理』として役所の帳簿上で処理しろ。法度の盾で、リアの交易を役人の目から隠すんだ」


次いで、リアを振り返る。

「リア、お前はその食料をその羌族の部族へ渡してやってくれ。ただし、ただの施しにはするな。臨洮の治安を守る役人として、彼らの冬を越す飢えは俺たちが救う。その代わり、この街への襲撃を二度と行わないと約束させろ。それが、生きるために取引に応じた彼らの、誠実な果たすべき義務だ」


仲穎は、まだ見ぬ取引相手がかつての宿敵「ガル」であるとは知らぬまま、目の前の命を等しく救おうとする実直な優しさと、治安維持を預かる役人としての義務感から、この現実的な裁定を言い渡したのである。


二人の女性は、夫の出したあまりにも優しく、かつ双方の面目を保つ大胆な裁定に、深く息を呑んだ。


王綏は、自分の知識がただの飾りではなく、一族とこの街の民を裏から守るための具体的な「盾」として求められたことに、初めて強い自覚を抱いた。彼女はリアに向き直り、衣服の裾を整えて深く一礼した。


「……リアさん。私の至らなさをお許しください。帳簿の誤魔化し、および太守への表向きの言い訳は、すべて私がお引き受けいたします。ですから……民を救うその交易の差配、どうか私にも手伝わせてください」

理想の少女が、初めて荒野の現実に足を踏み入れ、強き主母へと覚悟を決めた瞬間であった。


リアは一歩下がり、完璧な礼節でそれを受け止め、温かく微笑んだ。

「ありがとう、王綏様。そのまっすぐな知恵、本当に頼もしいよ。これから一緒に、この家を支えていこうね」


王綏が伝統を、リアが実利を。二つの異なる価値観が、董卓という男の器のなかで完全に融和し、一族を押し上げる盤石の両輪となった。

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