第三十二回
臨洮県の役所。木造の簡素な執務室には、乾いた風に乗って荒野の砂埃が絶えず滑り込んでくる。そこは、漢朝の最果てで現場を守る下級役人たちの、泥臭い職場でもあった。
「――以上が、今月討伐した野盗の首級の数と、押収した武器の目録。および、我が部隊における、兵糧の消費報告にございます」
仲穎は、地を這う大河のごとき落ち着きを湛えながらも、その声には連日の軍運用にともなう苦労を滲ませていた。太守・王奐ら文官たちの前に差し出された竹簡には、討伐の戦果だけでなく、多くの兵を動かすための莫大な糧食のやり繰り、練度不足による負傷者の数など、生々しい苦戦の跡がびっしりと書き連ねられている。
「よくやってくれている、仲穎。個人としての武勇だけでなく、それだけの軍を率いて荒野を巡回させるのは、並大抵の苦労ではないだろう」
文官の長である王奐は、提出された報告書を睨みながら深く頷いた。しかし、その顔には、中央の朝廷(洛陽)から下される無慈悲な重税の厳命に対する、地方官ならではの苦渋と疲弊が色濃く滲んでいた。
仲穎が報告を終えて執務室を出ると、廊下で一人の男が待っていた。治安維持のために新設された複数部隊の指揮官の一人であり、仲穎と同い年の馬元義である。
王奐が先の匈奴襲撃を教訓に、防衛組織の再編と多角化を目指した結果、臨洮の治安維持組織は役割を大胆に分けた複数の専門部隊へと拡充されていた。仲穎が最前線の討伐部隊を率いるのに対し、馬元義は荒廃した村々の復興や警護、民の慰撫を専門とする部隊を任されていた。どちらも、多くの兵とそれ以上の民の命を背負う、軍を任されたばかりの若き指揮官たちであった。
「お疲れ様、仲穎。相変わらずお前の部隊の報告書は、兵糧の計算といい兵の動かし方といい、泥を啜るような生々しさだな」
馬元義は、同じ下級武官の無骨な衣服の袖で汗を拭いながら、同い年の戦友に向けて親しげに笑いかけた。真面目で、誰よりも街のために頑張って務めを果たしている優秀な男である。
「ああ、お前の方こそ、西の村の復興はどうだ。兵たちの規律は保てているか」
仲穎は役人の衣服を軽く整えながら、気心の知れた同僚に向けて、率直な苦労を滲ませて問い返した。
「そこそこさ。ただ、お前が部隊を回して護ってくれたおかげで、民は何とか息を吹き返しているよ。だが……」
馬元義はそこまで言うと、仲穎の目の下に滲む疲労の影を見つめ、少し呆れたように、しかし温かい声で言葉を続けた。
「お前、また一人で全ての兵糧の計算や規律の維持を抱え込んでいるだろう。お前の武勇が並外れているのは知っているが、全部自分で解決しようとするなよ。軍を動かすってのは、一人で戦うのとは訳が違う。時には、他人を信用して任せることも大事だぞ」
その実直な助け船の言葉に、仲穎は微かに目をみはり、苦笑を浮かべながら素直に頭を下げた。
「……手厳しいな。だが、お前の言う通りだ。個人の腕っぷしだけで回るほど、軍というものは甘くない。肝に銘じておくよ、元義殿」
「そうしてくれ。お前に潰れられたら、他の新設部隊との連携も狂っちまうからな」
馬元義はふっと笑みを引っ込め、その眼に武官という立場ゆえの職権の壁に対する、深いもどかしさを宿した。
「民の悲痛な苦情を直に聞くのは、いつだって現場を巡回する俺たち武官だ。だが、いくら俺たちが『今年の税を猶予してくれ』と文官たちにお願いしたところで、上(中央)の政策が変わらなきゃ、書類の一枚も動かせない。俺たちがこれだけ苦労して、複数の部隊で必死に現場を護ったところで、一体誰のためのものなんだろうな……」
二人の隊長は、同じ若さで、同じ泥を啜りながら、漢朝のシステムが抱える構造的な不条理の前に佇んでいた。仲穎は戦友の言葉をしっかりと受け止め、深く息を吐き出した。
「太守閣下も中央からの圧力に頭を痛めておられた。……制度の壁は厚いが、俺たちが現場を投げ出すわけにはいかないだろう」
「分かっているさ。……そういえば、さっき市場の警護から戻ったんだが、お前のところでやっている『小さな交易』、あれは本当に凄いな」
馬元義は、重苦しい空気を振り払うように声を弾ませた。
「さっきも、国境を侵して街を荒らす常連だった羌族の若者が、市場に暴れ馬を売りに来てな。買い叩かれそうになって牙を剥きかけていたところを、お前のところの使用人たちが正当な対価で買い取って、部族の冬越しの食料を工面してやったそうだ。おかげでその羌族の連中も、今夜は大人しく引き上げていったよ。お前が部隊の兵糧のやり繰りに苦戦しているなかで、あの交易は、民や異民族が自分で生きる分を稼ぎ出す、最高の仕組みだ。あの互市こそが、今の臨洮の民の、最後の救いだ。俺も治安維持の隊長として、あの交易の場は命懸けで実直に警護するつもりさ」
「そうか、リアたちが……。良も一緒だったのか。あいつらがそこまで街の裏を支えてくれているとはな」
仲穎は、自らの知らぬところで家族が臨洮の危機を救っていたことに驚きつつも、どこか誇らしげに目を細めた。そして、馬元義の引き締まった肩を一つ、親しげに叩いた。
「元義殿、あの交易の場を護ってくれるというなら、これほど心強いことはない。頼んだぞ」
「ああ、任せろ」
馬元義は頼もしく笑い、治安維持の次なる任務へと向けて役所の雑踏へと消えていった。
仲穎は一人、役所の薄暗い廊下で自らの大きな手を見つめた。
頭の切れる元義の言う通りだ。個人の武勇だけで回るほど、軍というものは甘くない。
最近の仲穎は、数百の兵を動かす重圧から、かつて荒野で培った己の野生を忘れ、役所の書庫から引っ張り出してきた漢朝の古い兵法書(竹簡)の文字ばかりを目で追っていた。陣形の敷き方、兵糧の算段、全てを四角四面な法度と書物の知識だけで解決しようとし、その結果、現場の生々しい運用に行き詰まり、苦戦を強いられていたのである。
その夜、役所からの任務を終えて邸に帰宅した仲穎を、良が待っていた。
良は無言のまま、裏庭に繋がれた、燃えるように紅い1、2歳の幼駒(赤兎馬)へと仲穎の視線を誘導した。
その馬の獰猛な眼光、そして良の「鉄石のごとき沈黙」の奥にある確かな警戒の色を見て、仲穎は全てを察した。
「……ガルか」
良は何も言わず、コクンと静かに一つだけ頷いた。
そして、良は懐から市場での取引の帳簿を差し出すと同時に、その無骨な指先で、自らの頭をトントンと叩いた。かつて戦場でその男と激闘を繰り広げ、堂々と名乗り合った良だからこそ、ガルの残した言葉の重みを完璧に理解していた。
『仲穎に伝えてくれ。……もっと自分の直感を信じろってな』
良の沈黙の報告を通じて、宿敵であり兄貴分でもあるガルの不敵な声が、仲穎の脳裏に鮮烈に響き渡った。
(俺の……直感だと)
仲穎の胸の奥で、何かが激しく揺れ動いた。
書物に書かれた古い陣形や、漢朝の窮屈な戦術に頼り、それだけで軍を動かそうとしていた今の自分。ガルは、国境の外からその「青臭いもがき」を完全に見抜いていたのだ。
お前はそんな文字の羅列に大人しく収まるタマではない。お前自身の底知れない直感(野生の器)に従って、大軍を動かしてみせろ、と。
仲穎は、裏庭で激しく嘶く赤毛の幼駒を見つめながら、深く、昏い息を吐き出した。
兵法書をなぞるだけの今の用兵では、いずれ本物の乱世が来た時に身内を護りきることはできない。だが、書物の知識を捨て、己の血に流れる直感を軍の運用へと昇華させるには、まだ何かが決定的に足りていなかった。




